Essay
日々の雑文


 37   20071103★アニメ解題『シムーン』(1)
更新日時:
2007/11/27 

20071103
写真は自宅近くで見た、シムーンな空?
写真をクリックすると『シムーン』作品サイトへ。
 
 
 
 『シムーン』、思春期のレクイエム(1)
 
 
 
ここで述べることは、筆者の個人的な感想に基づくものでして、
すべて主観的な“創作的妄想”です。
『シムーン』制作者の意図を代弁するものではありません。
その旨、ご容赦下さい。
 
 
 
 
●“永遠の少女”の物語
 
TVアニメというものは、本来なら一話ずつ、毎週楽しみにして見るべきものですが、なにぶん田舎のTVでは映らないもので、放映後かなり過ぎてから、レンタルDVDでまとめ見するのが普通になりました。
これがまた、健康によくない。
目が疲れるのはまだしも、頭の中に突如として、新しい作品世界が出来上がってしまう、という現象ですね。三日前までは何もなかった脳内空間に、たちまち第一話から最終話までが怒涛のように渦巻いて、お話のピラミッドを築いていくわけです。しばらく頭はオーバーフローして、熱病状態。
とりわけ『シムーン』は凄かった。
脳内狭しと神の乗機が飛びまわり、ただ目が眩むばかりです。
これを、シムーン熱と、私は名付けたい。
 
『シムーン』。全26話。2006年4月から9月に放映。
DVD第一巻のキャッチコピーは、「2006年を百合色に染め上げる話題作!」。
ああ、またか……
深夜アニメはヲタクの天国、薔薇だか百合だかのお花畑状態なのか。
薔薇はいらんが、百合ならば宝塚歌劇みたいな趣だろうから、関西人には免疫あり。
そんな印象が先行しましたので、ちょっと嘆息しつつ、レンタルでまず一枚。
 
うーむ、これは……
たちまち全部借りて、一気に見てしまいました。
 
傑作じゃないか! それも、超ド級の!
心底、驚きました。そもそも、あっちの小百合とこっちの大百合が恋のお相手を取り合って、ぺたぺたと咲きまくる空中戦ラブコメだと思っていたのです。
泣いても笑っても、最終話はみんな仲良くハッピーエンド。そんなものだろう……と。
 
それがなんと。
自分の不明を恥じるしかありません。
 
『シムーン』は、間違いなく、歴史に残るべき金字塔です。
“永遠の少女”というロマンティックなテーマを、真面目に、真剣に、深く深く掘り下げた作品でした。
 
神聖な祈りを戦争の道具に使われ、巫女どころか忌むべき兵器として扱われ、人格まで否定されてしまった少女たちが、一途な思いで“生きている証”をつかみ、勇気をもって死と対峙し、ついに魂の救済を得る物語。
 
かくも美しい作品が、かつてあったでしょうか?
 
 
●古風でエレガントな、その時代
 
改めて思うのですが、女性の場合、箸が転げても笑えるような、多感な少女時代というものを、だれもが通過していますね。現代の少女たちは暇があったら黙々と携帯を相手にしていますので、傍目にはよくわかりませんが、携帯のない一昔前には、駅のホームや喫茶店で友達同士が固まって、小鳥のようにさんざめく姿が見られたものです。
 
そのころ、携帯メールで意地悪されることのなかった少女たちは、じつに天真爛漫に生きていました。
 
今から半世紀近く昔の国産青春映画には、そんな感覚が息づいています。『青い山脈』とか『エデンの海』とか、古風に言うと青春讃歌ですね。あるいは1970年代あたりまでの少女マンガ……萩尾望都先生の作品群が代表的ですが、夢見る少女たちの弾むような日々が、ロマンティックに謳い上げられていたのです。優しさと思いやりと純真さをもって……
 
『シムーン』は、じつは、そんな古風な少女たちの物語なのです。
 
作品の世界にひたると、なんだかなつかしいような、ほっとするような気分になりませんか。『となりのトトロ』や『三丁目の夕日』のような……
 
そうですね。『シムーン』の少女たちの世界には、携帯がありません。いや、それどころか、テレビもラジオも、電話だって見かけない。CDもなく、あるのは喇叭のついた蓄音機。シムーンや、ヘリカル・モートリスを使った超ハイテクのオーパーツを除けば、少女たちの生活は、明治か大正の女学生と同じレベルなのです。
 
21世紀の現代ではなく、明治か大正の、深窓の令嬢たちが日々を送る寄宿舎。
彼女たちは、厳格な寄宿学校で敬虔な祈りと学びの日々を過ごす修道女。あるいは『トーマの心臓』のシュロッターベッツ・ギムナジウムの生徒たちのような感じでしょうか。
 
そう、かつての『アニメ名作劇場』に名をつらねた、『ハイジ』や『母をたずねて三千里』『ペリーヌ物語』『赤毛のアン』などの世界と、ほぼ同じ生活なのです。
 
携帯がない、無線電話がない。
もちろんGPSなんか、ない。
それだけの設定で、『シムーン』には現代の私たちの生活では起こりにくい、エレガントなドラマが生まれます。
 
人を捜すときには、歩き回って名前を呼びます。会いたいときには、ドアを叩いて名前を呼びます。どんなに些細なことでも、そこに出向いて、直接に伝えるのです。だから……
話すことは、会うこと。
だれかと話すときには、たいてい、顔と顔が向き合い、手を伸ばせば、触れられる。
そこには礼儀があり、相手への敬意も、敵意も、愛も憎しみも、触れられる空気となって存在します。緊張感と、あたたかみが漂います。話し終わって別れるときの、なごりおしさも、切なさも……。
 
偵察に出たシムーンが視界から消えたら、連絡の取りようがありません。
どうしたのだろう。敵の待ち伏せに遭ったのか?
待つか、迎えに行くべきか。
探しに行き、間に合ったときの喜び。
そして、間に合わなかったときの悲しみ。
そして……予期せぬ相手との遭遇も。
 
最終話で嶺国のシムーンの編隊が見せる『朝凪のリ・マージョン』に美しい感動を覚えるのは、だからなのです。
無線電話がないからこそ、ただ黙して空に舞う嶺国の巫女たち。
だからこそ、ありきたりな言葉を超えた深い思いが、私たちの胸に押し寄せてくるのではないでしょうか。
まさに天才の演出でした。
 
携帯もメールもないから……
人と人の出会いが、やり直しのきかない大切な時間になり、そこが胸を打つ場面にもなるのですね。
 
『シムーン』は、そんな、古風そのもののムードに包まれた、エレガントな人々の群像劇。
愛らしくも気高く、たおやかで一途な少女たちの、儚(はかな)く淡い思春期グラフィティなのです。
 
 
●過ぎ去りし思春期に捧げるレクイエム
 
風のように訪れて、風のように去っていった、あの熱っぽい夢のような時代。
恋と友情が人生のすべてだった、あのとき。
かといって、作品中には、戦争という殺し合いや、仲間の死、葬送といった、夢あふれる少女たちの世界を暗転させる残酷な現実も容赦なく描き込まれています。
 
その結果……
少女たちの甘く切ない夢のときは、作品の最終話で、唐突に、終わりを迎えることになります。
得るのではなく、失う話。
消え去って戻らない宝物があったことを、思い出させてくれるお話なのです。
それこそが、『シムーン』が単なる百合萌えラブコメをはるかに超えた、傑作たるゆえんであるといえましょう。
 
少女から大人へ、夢から現実へと、自分自身の成長と引き替えに失ってしまうもの……二度と還ることのない、熱く甘酸っぱい思春期の思い出を、『シムーン』はその画面に、永遠にとどめようとするかのようです。
 
今は大人になった女性には、かつて夢あふれる純真な少女だった自分を、よみがえらせてくれる物語。
 
そしてこれは、男性の視聴者にとっても、同じなのです。
初めて女の子を好きになったあのとき。『シムーン』の少女たちのような、夢見る純真な女の子に恋をした自分がいたことを、思い出させてくれるのですから。
 
『シムーン』があなたの心に映すもの。
それは、夢見ることのできた、あのときの自分自身の心の遺影。
そう。『シムーン』は、あなたの、過ぎ去りし思春期に捧げられた、惜別のレクイエム……。
 
ここ数年のアニメ作品は、どうみても不作だと感じていました。しかしこれだけ美しく、気高いお話に出会うと、認識を改めなくてはなりません。
 
『シムーン』は21世紀の少女アニメの最高峰に立つのではないかと思います。日本のSFアニメとしても、おそらく到達できる至上の高みを極めた作品でしょう。
 
それが、質的に堕ち続ける国産アニメの、最後の残照として残るのか、それとも、未来にすばらしい才能を開花させる曙光となるのか、その行く末をしっかりと見届けたいものです。
 
特筆すべきは、音楽性の高さ。とりわけ最終話は最初から最後まで名曲全集で、感涙の滴が乾かぬうちに、次なる感涙が攻めてくる状態でした。
で、例によってCDを探そうとして、びっくり。
放映終了後一年で、どこの店頭にも、ない。
今どきのCDは、野菜なみである。そのシーズンに買わなければ、品切れになる。
あわてて発注して買ったものの、うーむ。
ジャケットは変態……だったなあ。……だけど中身は泣けるほどすばらしかった。
(しかし、CDドラマ『シムーン株式会社』は禁断の媚薬。最初に手を出すと、とんでもないことになると思う。嗚呼、なぜなんだ、社内リ・マージョンなんて!)
 
まぎれもなく、傑作の『シムーン』。
ただひとつ不幸なことは、おそらく営業上の配慮として、DVDの宣伝コピーにもあるように“百合色”を強調して、その趣向の作品を好むファン層を意識せざるをえなかったことでしょう。
そのため、ちょっと怪しい表現の宣伝手法やパロディ作品をサービスする結果となり、作品の本来の魅力が曇らされてしまったことは否めません。
 
しかしそれでも、この作品は類い稀なる傑作です。
『シムーン』の本当の魅力とはなにか。
思いつくまま、書き綴ってみることにします。
 
 
●シムーン。テグジュペリの乗機
 
シムーンといえば、『星の王子さま』の作者サン=テグジュペリが若き日に飛び立ち、リビア砂漠に不時着したときの愛機の名前ですね。
シムーンとは、砂漠に吹きわたる、熱く、乾いた風のこと。
テグジュペリは救出されるまで何日も砂漠の中に孤立して、死の危険にさらされました。このときの経験がもとになって、『星の王子さま』が生まれたとも言われています。
その名を冠したアニメ『シムーン』。
シムーンは、二十世紀のファンタジーの代表格でもある『星の王子さま』の生みの親を、砂漠の異世界へと運んだ機体と同じように、夢見る少女たちを時空のかなたへと運んでゆく幻想的な乗り物として、ここによみがえったのです。
 
 
●斬新と古風の見事な対比と調和
 
各話のオープニング。
速く、鋭く、軽やかに空を飛ぶシムーン。
神の乗機にふさわしく、航空機の常識を超えた超絶の機動。
エッジを効かせた軌跡を残し、蒼穹のステージに舞うスケーターの如く。
シムーンの機体はCGで作られ、現実味を欠いた滑らかで冷たい表面の質感が、人知を超えた神々の機械を思わせます。主動力源である、車輪状のヘリカル・モートリス。回転するヘリカル・モートリスに、じつはコクピットや尻尾のような周辺機体は接触していません。おそらく、手描きのセルで表現するのは困難な仕組みでしょう。そんな、この世のものではないかのような不可思議なメカニズムを、CGが鮮やかに描き上げました。
 
その反面、音楽は古風です。
全編を彩るクラシカルな舞踏曲。華やかに、時に激しく、時に重く、悲しく。
その音曲とともに大空を舞い踊るシムーンの編隊。
CGで描かれた冷たい感触の機体に、古風な曲が気品と落ち着きを与えます。
 
そして背景美術。
小林プロダクション(少女革命ウテナと同じ)による背景美術。水彩の手描きの風合いが、CGで作られたシムーンや母艦の硬質な色合いと、見事なコントラストを成しています。不思議なもので、背景については、遠近法を計算したCGよりも、アナログの彩画の方が、奥行きを感じさせます。
CGのシムーンの背景もCGだと、のっぺりした平面的な世界をぺたぺたと飛んでいるように見えてしまうのですが、手描きの空を飛ぶと、じつに生き生きとして、本物の自然の空を飛び交っているような空間感覚があるではありませんか。
 
こうした、斬新なメカと古風な背景という新旧のコントラストにはさまれて、登場キャラの輪郭線や表情は、物語の前半では平面的で、印象が弱くなりがちでしたが、物語の後半では、顔の輪郭などに手描き風の強弱がついて、“人・物・背景”の印象のバランスが大変良くなったように見えます。
 
このように、『シムーン』の魅力のひとつは、斬新なCGと、手描きの古風さが、じつに効果的に、ほどよくミックスされていることです。
モダンとクラシックの、妙なる調和。
これからのアニメ作品に先行する、アーティスティックな技法が、ほかにもいろいろと使われているのではないでしょうか。
 
 
●難しい言葉たち
 
『シムーン』の魅力であり、同時に悩みの種は、言葉の難しさです。
まず、紛らわしい言葉。
シヴュラ・アウレア、シヴュラ・アーエル、シヴュラ・アムリア。
第一話から三つとも出てきたもので、しばらく区別がつかんかった。
アウリーガとサジッタだけならまだしも、レギーナが交じったら、なんだかこんぐらかってしまった。
そして言い間違えやすい言葉。
シヴュラを「しゅびら」「しびら」
ヴューラを「びえら」
ワウフを「わあふ」
アウレアなんて、どこかで「あうれら」と言ってたぞ。
シミレは「しゅみれ」「しむれ」
アングラスは「あんぎらす」
メッシスは「めっしな」「めっさら」
アルクス・ニゲルは「歩くす逃げる」
そんなふうに間違えそう。
なんてったって、横綱級はアルクス・プリーマ。
「あるぷすくりーま」と言っちゃった声優さんがいても、不思議はない。
誰も気付かずに放映しちゃった回があっても、驚かないぞ。
 
 
●好きなキャラ
 
個人的趣味でいきますと、なんといってもメッシスの艦長わっふんことワウフ。
「巫女さまたちを逃がしてさしあげるのだ!」と、敵の楯になろうとするあたり、おっさんパワー全開といったところですね。「いっぷく」なんて言葉も知っていますし。
それはともかく、現実と見事に折り合いをつけながら、弱き者を守って誠実に戦うワウフは、まさに中間管理職の鑑。こういう人が、世の中を本当に良い方向へ動かしていくんですね。
 
次に好きなのは、嶺国の巫女さん集団。質素な巫女装束に地味なお顔で、いかにもおとなしそうですが、これがなかなか。シムーン乗り回すわ、拳銃を振り回すわ、自爆攻撃なんのその、やることなすこと超過激。それでいてシヴュラ・アウレアにひざまづき、「私たちは大罪を犯しました……」と懺悔するあたり、本家のシヴュラ以上に真面目で礼儀正しく上品なのです。ここ一番の大事なときに、「お急ぎください」と敵であるシヴュラに道を譲ってくれたのですよ。それも二度も。そのうえみんなバイリンガル、知的水準も並大抵ではありません。
これは、勝てないよな……
うっかり喧嘩したくない人たちです。まったく。
 
三番手は、やはりマミーナ。庶民育ちならではの、シヴュラらしからぬバイタリティ。ネズミのシチューまでおいしく仕上げる料理の腕も、お掃除のテクニックも相当なもの。なにかとずぼらなアーエルとは違って、未来の良妻賢母まちがいなしの逸材です。そんな彼女が、あのようになってしまうとは、不憫でなりません。戦争とは、死者すら眠らせてくれないという、苛烈な現実。そんな荒れ果てた世界にあって、マミーナはひっそりと咲く、一輪の野のユリでした。合掌。
 
 
●主人公が消えたラストシーン
 
『シムーン』の物語構成上の最大の特徴であり魅力は、あの、切なく心ゆさぶる最終話に尽きると言ってよいでしょう。
演出上、通常のアニメにはまず見られない、衝撃的な結末です。
なんといっても、主人公の二人が、一足先に、舞台から消えてしまうのですから。
 
このように大胆な結末は、ほかに二つの例があります。
1992年頃のTVアニメ『無責任艦長タイラー』。
最終話の前半Aパートで、主人公のタイラーは軍を去り、行方知れずとなります。
(Bパートでのお祭り騒ぎは、作品中の現実の出来事ではなく、Aパートで本編が終結して幕が降りたあとの、カーテン・コールのような演出だったと解釈します)
 
もうひとつは1997年の『少女革命ウテナ』。主人公のウテナは姿を消し、学園の人々からも忘れ去られてしまいます。ただひとり、ヒロインのアンシーを除いて……
 
で、いずれの作品も、結末では、青春のある時期が終わり、主人公たちが別の世界へ旅立っていったことが暗示されて幕を閉じます。
そのとき、大人への成長と引き替えに、人はなにか大切な青春の宝物を手放します。
それは、作品を見ている、現実世界のあなたも、体験していることでしょう。
昔、若い頃に、失ったもの、あるいは置き去りにしたものがあった。
そんな、忘れていた夢を思い出し、失って戻らぬものに思いをはせる。
 
主人公がいなくなる結末は、すなわち、主人公に感情移入していたあなたが、作品世界から消え去ることを意味しています。作品世界にお別れして、現実世界に対峙しなさいということですね。とはいえ、これは、なかなかのショックです。
主人公とともに、作品世界から引き剥がされる、自分。
悲しく、寂しい出来事です。だから、そこに、いとおしさのこもった切なさが、ほのかに漂ってくるのでしょう。
 
 
●空に消えた天使たちへのオマージュ
 
最終話で、“希望の大地”へと旅立ったアーエルとネヴィリル。作品の世界に残ることなく、かといって死んだのでもなく、まるで、天使が神のもとへ昇天するが如くです。
 
そのようにして、私たちの世界を去った人が、実際にいます。
 
1928年、北極海にて、飛行艇で遭難者の捜索に向かったノルウェーの探検家ロアルド・アムンゼンが。
1937年、南太平洋にて、ロッキード・エレクトラ機で冒険飛行に挑んだ女流飛行家アメリア・イヤハートが。
1944年7月、地中海にて、ライトニング機で偵察に飛び立った作家サン・テグジュペリが。
同年12月、ドーバー海峡にて、クリスマス・コンサートのために連絡機ヌーアダインで飛び立った作曲家グレン・ミラーが……
 
それぞれの空で、消息を絶ちました。
 
天空へ消え、そして戻らない……
不思議なことに、それは、死ではありません。
地上の人々が弔えば、それで終わるものでもありません。
人々の記憶には、死ぬことなく、今も大空を飛び続けている天使の幻影だけが残るのです。
それは、終わりなき永遠の生に至る道。
それが、アーエルとネヴィリルの選んだ道なのでしょう。
 
『シムーン』の最終話は、そんな、遠く高い空へ消えていった天使たちへのオマージュでもあるのですね。
 
 
●『少女革命ウテナ』との共通性
 
『シムーン』には『少女革命ウテナ』と共通する要素が、背景美術以外にも、かなり多く認められます。というよりも、そっくり、と言ってもいいくらい。
 
友を失って自責の日々を送る悲しき姫ネヴィリルと、快活に戦う男まさりのアーエル。
二人の関係は、アンシーとウテナに通じるものがあります。
 
母艦アルクス・プリーマは、シムーンの少女たちにとって寄宿学校そのもの。ウテナと同じですね。
少女たちの、恋のゲーム。マージュ・プールでのフェンシングとそっくりな場面が『ウテナ』にもありましたね。
 
コール・テンペストという小さな王国の“姫”であるネヴィリル。その恋人役ともいえるパルの座をめぐって、登場人物が対立し争います。パライエッタとアーエル、アーエルとマミーナ。それら対立の構図は、『ウテナ』における“薔薇の花嫁”アンシーの所有権をめぐる決闘を彷彿とさせます。
そしてアーエルが、行方不明でありながらもネヴィリルの心をとらえ続けているアムリアに対して嫉妬する状況は、『ウテナ』で、アンシーの夜を支配している暁生にウテナが嫉妬する様子を連想させます。
脇を固める配役にも、『ウテナ』とかなりそっくりな人間関係がみられます。
アーエルに一目惚れするフロエは、『ウテナ』の若葉に相当しますし、カイムとアルティの姉妹の確執は、『ウテナ』における薫幹と薫梢にそっくり。また、パライエッタを慕うカイムの焦燥は、『ウテナ』における樹璃と枝織の関係を思わせます。ひょっとすると、ドミヌーラとリモネの関係は、『ウテナ』では七実と石蕗に相当するのでは。
 
どちらかといえば『ウテナ』の方が、「これでどこが中学生なのだ!?」と驚愕させられるほど大人の心理で行動していました。『シムーン』の少女たちは基本的に純粋な善人でしたが、『ウテナ』の登場人物は、一途なウテナ以外は、だれしもが心に深い闇を持ち、支配欲と欺瞞と背徳を引きずっていたようです。人間関係に秘められたダークな一面、現実的なドロドロの人間模様を余すところなく描ききった点においては、『ウテナ』が一枚上手だったと思います。
 
さて、『ウテナ』とは別に、『シムーン』がある面で酷似している作品に『ノワール』(2001年)があります。
シムーン・シヴュラたちは、国に災いをなす侵略者たちを殲滅する、神の巫女です。
そして“ノワール”も、ソルダの人々を守護し、死を司る二人の処女(おとめ)でした。第25話では、シヴュラたちが泉に行った帰路の列車内で、シヴュラでなくなった少女たちの前に小さな女の子がひざまづいて、両手を胸の前にクロスさせ、心から敬意を捧げる姿があります。それは、『ノワール』第22話で、ノワールである霧香に対して、村人たちがみなひざまづいて敬意を示す姿と、ポーズまで同じですね。
 
シムーン・シヴュラが日頃戦争でやっていることは、大量殺人。しかしそれは同時に、祖国の人々の平和を守る行為であり、人々の心の支え。だから人々はシヴュラに祈りを捧げます。
『ノワール』でも同じでしたね。ソルダの村の人々は、ソルダに尽して敵を殺すノワールに絶大な尊敬を寄せており、だから頭(こうべ)を垂れて祈るのです。
 
どうやら、『シムーン』と『ウテナ』『ノワール』は、その精神性の面で、根本的などこかに共通するものがありそうです。宮国と嶺国の巫女たちが崇める神様が「もとは同じひとつの神だった」と言われるように、この三つの作品は、どこかでルーツを同じくしているのではないかと思えるのです。
 
また、三作品とも、サウンドトラックの音楽がアニメ番組としては秀逸の出来栄えであることも共通しています。場面によっては、あまりにも音楽と一体化しているので、オペラでも観ているかのような格調の高さを感じさせます。
 
少女たちの武器でもあるシムーン。ウテナはシムーンのかわりに、ディオスの剣という武器を手に、決闘に赴きます。
その目的は“世界の果て”。
閉じこめられていた世界から、自由になれる世界への脱出と解放への渇望。
『シムーン』と同じように、『少女革命ウテナ』の映画版でも「行こう、新しい世界に」といったセリフが出てきます。
 
一見華やかな戦いの影に、柩や葬送のイメージが暗く横たわっていることも、共通しています。
『シムーン』の少女たちは、敵からみれば、悪魔の飛行兵器を操って大量殺戮する、人殺しの魔女たち。それは、純粋な少女が併せ持つ残酷さを表してもいるのでしょう。
 
そしてウテナの世界でも、少女たちの残酷さや恐るべき狡猾さをくまなく描き、生きている限り誰にも避けられない死の運命を重たく暗示しています。
 
『シムーン』の少女たちが、聖なる巫女でありながら、“生きている殺人兵器”として扱われ、自由を失ってゆく過程は、ウテナに出てくる「生きながら死んでいる」状態に通じるものを感じます。
 
そして、『シムーン』と同じように、ウテナは戦いの勝者にはなりませんでした。
敗けて去る。
最終話に至って、ある意味アニメ離れした、厳しい現実が突き付けられてくるのです。
 
この点を、『シムーン』はさらに残酷なほど徹底しています。
なにしろ、戦争です。
最終話のラスト近くのシーン。なんと湖に沈んだアルクス・プリーマ。
それだけでも十分にショックですが、その朽ちかけた船体をながめつつ、二人の青年が別れを告げあいます。
「それじゃ敵同士か……」「“またね”じゃなく、“さよなら”だね」と……
数年後には戦場で出会って、否応なく殺し合うことになるのかもしれない。
かつて生死をともにして、互いを守りあったシヴュラ同士が……
しかしそれでも現実は変えようもなく、折り合って生きていくしかない。
そして、歳を重ね、老いていくしかないのだと。
 
 
●宗教と戦争。神国ニッポンのもうひとつの姿。ひめゆりの涙。
 
たいていのアニメでは避けて通る、現実の重たいテーマを、『シムーン』は真正面から受けとめていきます。
なにしろ第一話から、神の乗機シムーンが墜とされているのです。お気楽な無敵のロボットに乗っているのではなく、ろくに防弾もなく、敵の弾丸がやすやすと貫通するコクピット。最初から最後まで、シムーンの少女たちは苦戦を強いられます。
 
神の乗機シムーンと、聖なるリ・マージョンを見れば、敵は畏れをなして逃げる……と教えられてきたのに、現実の戦争は、まるで逆なのです。
 
宗教的な精神が、科学の力と物量の前に、あえなく崩れていく現実。
 
科学と宗教。合理主義と精神主義。モノとココロ。
そういった、ふたつの概念の対立。あるいは結託。
その結果が、人間を幸せにしてくれるのか、否か。
 
じつはこれ、SFの伝統的なテーマでもあるのです。
SF作品として『シムーン』から読み解けるもの。それは……
 
繰り返される歴史。
 
シムラークルム宮国……それは、かつて神の国とされたニッポンを彷彿とさせます。
科学力の戦争となった太平洋戦争を「神国は不敗である」との精神主義で戦おうとしたニッポン。
その象徴が、カミカゼですね。いわゆる特攻。
カミカゼ……ウインズ・オブ・ゴッド(神の風)。爆弾を抱いた飛行機に乗って、敵の軍艦に体当たりするという、死を前提とした自爆攻撃。
「一機よく一艦を屠る」と絶賛されたのですが、その言葉が通用したのは、カミカゼが登場してしばらくの、わずかな間だけ。
二、三ヵ月もすると、高性能なレーダー探知網と、砲弾が直接命中しなくても、目標のすぐ近くを通過すれば爆発して被害を与える電波信管の配備によって、米軍はカミカゼをばたばたと撃ち墜とせるようになっていました。
連合軍の科学力と膨大な物量が、カミカゼの神通力を圧倒したわけです。
 
「巫女さまが、悪いやつらを追い払ってくれる……」と絶賛されたシヴュラたちでしたが、礁国の科学が生み出した飛行機械の性能と、ひたすら多数を投入する物量作戦の前に、健闘虚しく、屈しようとしていた……
そんな状況が、冒頭の第一話から描かれています。
 
シムーンはまた、日本海軍の零戦を彷彿とさせます。その卓越した性能で、戦争初期には無敵と恐れられた零戦。また、その戦果は、ベテラン搭乗員の神業的な空戦技量に負うものが多かったといいます。
しかし、やがて米軍の科学力と物量が、零戦を破る日が来ました。血眼になって、墜落した零戦の機体を捕獲、その性能の秘密を暴くことに成功したのです。
「零戦は神の乗機ではない。ただの機械だ」
米軍のエンジニアたちは、きっとそう言ったことと思います。
無敵で不敗の伝説を背負ったシムーンも、同じ運命を辿ったと言えるでしょう。
 
そんなシムーンで戦うシヴュラの少女たちは、もうひとつ、太平洋戦争で悲惨な運命を辿った少女たちを思い出させます。
ひめゆり学徒隊。
 
日本本土を守る盾として、圧倒的な米軍の前に立ちはだかった、沖縄。
残忍非道にも、味方であるはずの日本軍によって、沖縄の民間人は捨て石にされてしまいます。
その沖縄戦において、ごく普通の中高生くらいの女学生たちが、実質的に軍隊に取り込まれ、看護兵の一部として行動し、否応なく戦闘に巻き込まれていきました。
そして殺され、あるいは自決するしかなかった少女たち。
絶対に、二度と繰り返してはならない、残虐にして恥ずべき史実。
 
そして……本来、戦いなどするはずのなかったシヴュラたちが、敬虔な巫女でありながら戦争に巻き込まれ、死と絶望に直面していくしかなかったという、悲劇の歴史を綴る『シムーン』。
お話の前半は自由意志による志願制らしかった戦闘への参加は、後半では「強制」という言葉にすり替わっていきます。
 
「ひめゆり学徒隊」の少女たちとシムーン・シヴュラの少女たち。
その運命は、おそらく、無関係ではないでしょう……
そう考えると『シムーン』は、単なるアニメの域を超えた、凄絶な魂の黙示録でもあると思えるのです。
 
 
●アングラスの犠牲の陰に
 
うすら寒くなるような、敗北の予感は、神に捧げる心清き祈りを、戦争の道具に堕落させてしまった人々への、神罰なのでしょうか。
宮守さまたち、テンプス・スパティウムの宗教者たちは、戦争を否定しながらも、戦争に協力することで、軍部と張り合うだけの政治的パワーを手に入れようとします。世俗の欲にまみれて、聖なるシムーンとシヴュラたちを、政争の具に使ってしまったのです。そして、結局は力に屈して軍部に利用されてしまいます。
 
科学と物量に押され、シムラークルム宮国の敗色深まる中……
司政院、司兵院、そして宮守たちの三巴の対立と、敗戦の責任のなすりあいが始まります。だいたい、敗けが込んでくると、手近な弱者に責任を押しつけるのが、人の常。
なんのことはない。要するに、敗けて無条件降伏したくせに、「形だけでも他国と対等でいられるのは、だれのおかげか」と、恩着せがましく威張る軍部。そんな軍人も、占領軍の総督の前では、媚を売る猫です。
シムラークルム宮国の、それは哀れな悲劇であり、国の誇りを自ら貶(おとしめ)ることでしかなかったのです。
 
一方、宗教的な精神主義を捨てて、それを背徳と知りつつも、エリート軍団の道を歩んだ人たちがいます。嶺国の巫女たちがそうですね。
嶺国の巫女たちは、宗教的な使命を棚上げにして積極的に武装し、なまじの軍人よりも強い軍団となりました。武力そのもので軍部を上回ってしまい、おそらく、そこいらの将軍よりも発言力を持つに至ったのでしょう。
なんてったって、自爆攻撃。
下手に逆らえば、味方だってブッ飛ばされる……
嶺国の巫女たちがアルクス・プリーマへ仕掛けた自爆攻撃は、ただ敵へ向けた攻撃ではありません。
嶺国の巫女集団は命知らずであり、勝つためなら味方を射つこともいとわない。
そういった恐怖感を、味方の軍部に対して与えるキャンペーンでもあったのです。
そうすることで、嶺国の巫女集団は味方の軍部に拮抗し、政治的に、自分たちの意志を通すことができるようになったと思われます。
軍部に利用され、捨て駒にされることを防ぐため、嶺国の巫女たちは、アングラスをはじめとした、恐るべき犠牲を払ったのでした。
 
 
●生きている証
 
戦争に協力し、加担する宗教。
その末路までを、『シムーン』はあざやかに描き切ってくれました。
戦争に祈りの力を貸した結果、シムーンとシヴュラたちは、ただの、“武器と兵士”に堕とされてしまうのです。
戦争の道具にされたばかりに、祈りの神聖さを汚され、プールでのマージュは「戦闘訓練」とまで侮辱されてしまうのですから。
 
そして容赦のない、シビアな結末。
死によって分かたれた友。事実上の敗戦。そして屈辱。
拒否することは許されず、女と男に別れてゆく少女たち。
少女たちの魂のゆりかごでもあった母艦アルクス・プリーマとのお別れ。
最後の日、ことさらに明るくふるまう少女たち。その思いの痛々しさ。
 
戦争が終わり、敵国に屈したとき、どうなるのか。
勝った国は、敗けた国に対して、真っ先に何をするでしょうか。
武装解除ですね。
名目はどうあれ、シムーンとその母艦の接収、そしてシムーンを操って戦術核なみの破壊力をもたらすシヴュラたちの無力化。これが最優先事項となります。
第25話で、少女たちが有無を言わさず泉へ行かされるという状況の裏には、彼女たちがすでに“巫女”などではなく“兵士”であり、それ自体が驚異的な大量破壊兵器として見られていることを示しています。
 
そこにはもう、少女たちの“人格”すら、ひとかけらも残されていなかったのです。
 
宮国を占領した連合軍から、忌むべき兵器として扱われ、泉へ行くことを強制されたとき……
それは、シヴュラが滅び、その存在そのものが消し去られることを意味していました。
 
武器として使われたがゆえに、ただの“祈り”をする自由すら奪われてしまった彼女たち。
人格すら否定されてしまった少女たちにとって、最後にできる、たったひとつの抗(あらが)いは、ただ二人残った“最後のシヴュラ”を、自由の輝く“希望の大地”へ送り出してあげることでした。
 
それが、彼女たちがこの世界に存在することを刻む、“生きている証”になったのです。最終話のモノローグ。    
「私たちは、たしかに、ここに存在したのだと」
私は、ここにいる……
それは、人がこの世に生きた証。
人がこの世に、生きた痕跡を刻むこと……
 
「このようなところで死にゆく、名もないシヴュラ」
そう、心の内を吐露したマミーナですが、その直後に、敵の巫女たちの「あなたも、最高のシヴュラです」という尊敬の念に触れて、初めて、たしかな“生きている証”を手にします。
「わたしは生きている。ここに、この時間に、この場所に、たしかに生きている」
そう信じられたとき、人は、自分がこの世に意味を持って存在したことを、心から幸(さいわい)とすることができます。この世に、生きた証を残せたのだと。
だからこそ、マミーナは死の恐れに打ち勝ち、死を受け入れすらしたのでしょう。
これを、魂の救済と呼ばずして、なんと言うべきでしょうか。
 
それと同じことを、第25話の少女たちが、するのです。
アーエルとネヴィリルを送り出すことによって、自分たちが“生きている証”を得る。
“生きている証”、それは、生きている誰にでもいつかは訪れる死というものに、顔をそむけることなく対峙するための証。
未来のあるときに、自分の死を恐れずに受け入れるパスポートでもあるのです。
それが、魂の救済。
人の魂を救う巫女でありながら、戦争という人殺しの道具にまで堕としめられ、ココロを穢された少女たちの魂は、ようやく最終話に至って、自らの魂の救済に到達することができたのでした。
 
これが、『シムーン』の本当のテーマであると思います。
 
人の心の傷と痛みを、見落とすことなく描ききる。
それはまさに、『シムーン』の傑作たるゆえんですが、宿命的な弱点でもあります。
視聴者の多くは、そんなに重たいお話を好んでいないからです。
現代の視聴者の多くが美少女アニメに求めるのは、現実からの逃避でしょう。
現実に押しつぶされそうになりながら、必死で抗う非力な女の子たちの物語など、見たくもないという人が多いことも、また事実です。
 
そんな現代に、なんと、『シムーン』のような重く辛いお話が産み落とされた。
その英断に、拍手を送ります。
それだけでも、奇跡のような出来事なのですから。            (つづく)
 


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