Essay
日々の雑文


 38   20071103★アニメ解題『シムーン』(2)
更新日時:
2007/11/26 

20071103
写真はスコットランドの教会。シヴュラな天使?
写真をクリックすると『シムーン』作品サイト(ビッグローブ)へ。
 
 
 
 『シムーン』、思春期のレクイエム(2)
 
 
 
 
 
●ペンダントの翼。セカイの仕組み。ヘリカル・モートリス。
 
セリフで説明されることなく、そのまま残された謎があまりに多い『シムーン』。
しかし、『新世紀エヴァンゲリオン』ほどイジワル(失礼!)ではなく、小さな手がかりが、随所にちりばめられているようです。
 
さて、この世界の大きな特徴は、最初にだれもが女性として生まれ、十七歳を境に“泉”を訪れて、性を分化させるという仕組みにあります。
これは順序として、おかしくはないようです。
現実の私たちも、生まれる前に母親の胎内で、まず女性に近い身体の構造が形作られ、それからはっきりと男性・女性に分化していくらしいですから。
私たちが胎内でやっていることを、『シムーン』の世界では、生まれてからやっていると考えてもいいでしょう。
 
余談ですが、シヴュラたちをはじめ、宮国の主要登場人物が首にかけている、おそらくテンプス・スパティウム(タイム&スペースってことですね)の信仰を示すペンダントは、その人が性別を選んでいない状態では左右の翼がついていて、男性を選択したら、向かって左の細い翼だけが残り、女性を選択したら、向かって右の広い翼だけになることがわかります。
性別を選択してからも、性の完全な分化には時間を要するようですから、外見がどちらかよくわからない人も多いでしょう。そんなとき、一目で性別がわかるという、便利なペンダントですね
 
にしても、そうなると、大人になりかけの段階で、身体は女で心は男、あるいはその逆といった、いわば性同一性障害のようなことが、日常茶飯事ってことになります。きっと宮国の社会は、そういったことには鷹揚で、結果的に、ゲイもレズビアンもおおらかに受け入れて生活していることと思われます。
よいではないですか。社会の寛容性も、作品のサブテーマであると思います。
 
対して、礁国では、クスリとか手術によって、強制的に男女に分化させる制度があるとされています。
ちょっと気になりますね。なぜ、そんな制度が必要なのでしょうか。十七歳まで待てば性別が分かれるのに、なぜ、待てないのでしょうか。
「待てない」というよりも、おそらく「そうしなければ、性が分化してくれない」状況に陥りつつあるからではないかと思います。
 
第1話の冒頭で、礁国の工業都市が映りますが、科学技術の発展の代償として、大気や水を激しく汚染しまくっている様子がわかります。
一目でわかるように、これでは環境ホルモンだらけですね。
その結果、礁国では、いつまで待っても性が分化してくれないという病が増加していることが考えられます。生まれたら早いうちに、無理矢理にでも性を分けてしまわないと、子孫がつくれなくなるという、国の存亡に関わる危機を迎えているのでしょう。
 
かたや、隣国である宮国では、地中から掘り出されるヘリカル・モートリスのおかげで、最初から環境に無害な動力源を手に入れています。
ヘリカル・モートリスは、どうやら時間と空間からエネルギーを引き出す装置のようですが、詳しくは説明されていません。
そこで、勝手に想像してみます。
面倒なことを考えず、時間と空間は常に動いていて、風の流れのようなものだとしましょう。それは、エネルギーの高い方から低い方へ流れているとします。すると、ある一点に動かない軸のようなものを置いて、そこに風車を取り付ければ、それは空間と時間が存在するかぎり、回り続けて、永久に動力を取り出すことができますね。
      
ヘリカル・モートリスの螺旋構造は、時間と空間の流転に少し逆らうことによって、時間と空間の変化からエネルギーを抽出する仕組みだと考えられないでしょうか。
これこそ、環境にクリーンで、理想的な永久機関だと言えるでしょう。
 
シムーンに搭載された二基のヘリカル・モートリスがリ・マージョンを描く現象は、おそらく、ふたつのヘリカル・モートリスが時空からエネルギーを引き出す過程で、そこに、時間と空間のかすかなズレ、小さな活断層が生まれるということではないかと思われます。その活断層が、ゆれ戻って、ズレを直す。そのとき、激しい時空震を発生されるということで、説明できるでしょう。
 
しかし、ヘリカル・モートリスは、すでにあるものを掘り出しているだけだから、なくなればおしまい、資源として枯渇する恐れもありますね。
さにあらず。ヘリカル・モートリスは、翠玉のリ・マージョンによって、時空を超える能力を発揮します。ならば、ヘリカル・モートリスをじゃんじゃん過去へ送り、それが現代に至ったら、また過去へ送ればいいのです。すると数が増えます。それこそ無尽蔵に増やせるのです(??)。
そんないいものを、横で指をくわえて見ているのはいやだ。
それが、礁国の率直な心境でしょうね。
 
 
●『シムーン』世界の空
 
さて、些末なことかもしれませんが、『シムーン』の星の空は、私たちの地球の空と、どことなく違っているようです。
第1話で、早速、宮国へ侵攻する、礁国の飛行船と飛行機の大群。
しかし母艦となる飛行船を見ると、重たいエンジンが船体上方についており、装甲板まで張っています。地球の空ではとても飛び上がれない重量ですが、それでも空へ浮かび上がっていることをみると、『シムーン』の空は大気密度がかなり濃厚で、地球の空とは、真水と塩水くらいの差はありそうです。
 
その証拠か、礁国の戦闘機も、雨どいを上下に重ねた形の小さな翼で揚力を得ていると考えると、かなり空気が濃くて、浮かびやすい空のようです。
そのかわり、空気抵抗は大きくなります。礁国の戦闘機は飛躍的にパワーアップしていきますが、それでも第一次大戦の飛行機なみのスピードでしょう。
「○時方向に敵機発見!」「敵シムーン発見!」などと見張りが叫んでからも、そこそこ反撃する時間が残されています。第二次大戦のレシプロ戦闘機でも、見えたら、「あっ」と言う間に飛び過ぎていくほどのスピードがありますが、『シムーン』ではそうではありません。シムーンも含めて、飛行機械の速度は、そう早くはない。時速百q前後で戦闘しているといった感じですね。
 
また、大気密度が高いことは、それだけ音がよく伝わることになります。シムーンをはじめ、飛行機械の風切り音は、地球で聞くよりもずっと大きくなります。シムーンのキャノピーを開けて、敵機の爆音を聞き取る様子も登場することから、察せられるでしょう。
 
ただ、全編を通じて、明らかにシムーンの方が、上昇力と高空性能に勝っています。常に礁国の飛行機は低空侵攻であり、シムーンとその母艦は高度を取って、上空から迎え撃つ体制を保つことができました。
察するに、礁国の飛行機が十分に揚力を得られるほど大気密度が高いのは低空であって、ある高度以上になると空気が急激に薄くなって、礁国戦闘機の行動は大きく制限されたのではないかと思われます。
その反面、シムーンは高空へ昇って、抵抗の少ない薄い大気の中を、高速で巡航できたのでしょう。この場合は、ジェット機なみのスピードを出せたかもしれません。
 
 
●アムリアとアングラスの謎。シムーンからの出発と到着
 
シムーンとヘリカル・モートリスにまつわる不可解な現象としてまず呈示されるのは、アムリアとアングラスの消滅、という謎です。
 
第1話で、翠玉のリ・マージョンに失敗したアムリアはどこへ消えたのか。作品中にはその回答は示されていませんが、翠玉のリ・マージョン失敗をきっかけに、時空を超えるメカであるヘリカル・モートリスの力によって、機体ではなく搭乗員だけが、そのコクピットから、どこかへ飛ばされてしまうことがある、ということがわかります。
 
それに似たケースで、人だけが消えたのは、アングラスの場合。第8話でアルクス・プリーマへ自爆攻撃を仕掛けて、12機ものシムーンを巻き込む大爆発を起こし、骨の一片も残さずに掻き消えました。
その後、破壊されたシムーンの再生が断念されたことから、計24本ものヘリカル・モートリスが機能を失ってしまったことと推察されます。爆発によって、時空を超える力を、使い果してしまったのでしょうか。
 
そして第17話、遺蹟の中に古代から埋もれていたらしい古代シムーンの中に、アングラスの遺体が発見されます。見たところ、遺体はミイラ化していたわけでもなく、自爆したときに息を引き取ったまま、瞬間的に時空を移動して、そこに横たわったかのようです。
あくまで見える範囲ですが、自爆による外傷は認められません。
魂をどこかへ置き去りにして、肉体だけが移動したのでしょうか。
 
こちらも詳細はわかりませんが、シムーンのコクピットから“出発”したアムリアの場合とは逆に、時空を飛ばされてきた肉体が、シムーンのコクピットへ“到着”することもあるのだとわかりました。
 
また、アムリアもアングラスも、本来なら機体の損壊や爆発によって、肉体がばらばらになっていたはずです。しかし、そんな形跡を残さずに、きれいな身体で時空を移動したようだ、ということは……
二人の移動は、肉体が傷けられるよりも、たとえ一瞬でも、時間的に“前”の出来事だったことになります。こう考えられないでしょうか。二人の肉体はばらばらになった。しかしシムーン球とヘリカル・モートリスの力で、一瞬だけ時間が戻されて、二人の肉体は保護されたまま移動したと。
 
二人は性別されていない“少女”でした。アングラスにも、シムーン搭乗者の資格はあったのです。そして、二人のすぐ近くには、シムーンがあり、少女の心を読むシムーン球がありました。
そして二人の心は、ある点で共通していました。
「命を失ってもいい。やり遂げたい」という、必死の思い、そして選択と決断です。
仲間たちの危機を救うため、翠玉のリ・マージョンに挑むアムリアはもちろんのこと、アングラスも、死を覚悟して「アー・エル!」と絶叫した瞬間が、そうでしょう。
 
命をかけた、激しい心のほとばしり。
それが、シムーン球を反応させ、ヘリカル・モートリスの未知の力を引き出した。
そして人を、時空を超えた飛行へといざなった。
その出発点と到着点は、シムーンのコクピットだった。
 
二人の謎から、それだけのことが、読み取れるのです。
 
 
●ドミヌーラとリモネの謎。テンプス・スパティウムの十字架。
 
第20話以降、翠玉のリ・マージョンによって消えてしまったドミヌーラとリモネの“その後”がちらほらと語られて、シムーンにまつわるこの世界の秘密が明らかになってきます。
 
まず、第14話で分解したヘリカルモートリスの中に、ドミヌーラが見てしまったものはなにか。それは自分自身のこれからの記憶であることが第21話で語られます。自分がこれからどうなって、この世界の中でどんな役割を担う運命にあるのかを、ドミヌーラは知らされてしまったのです。
人格崩壊の一歩手前に至るほど、すさまじい衝撃的な出来事だったに違いありません。
まさか、自分があの人になる定めだったとは……
 
その事実はまた、翠玉のリ・マージョンによって消えてからのドミヌーラに、歴史を大きく改変するチャンスが与えられたことを意味します。
そう、もしも、自分が過去の巫女たちに、シムーンの飛び方を教えなかったら、未来の戦争は起こらず、シヴュラたちが戦争に駆り出されることもなくなるはずだ。
しかしそうすれば、自分を慕ってくれる大切なパルであるリモネと自分が出会うこともないだろう。
ドミヌーラは苦悩しますが、結局、歴史を変えずに、神に与えられた運命をそのままなぞることを選択します。村人たちにリ・マージョンの伝説を語ることを決め、その日、第21話で、村人たちの前で、希望の大地を語る“新天地への扉”の歌(田園)を歌います。はからずも、アーエルの持つ風琴の曲のオリジナルが、この時代にドミヌーラによって初めて歌われ、後世に伝えられたことになるようです。
物語の随所に登場するこの歌は、はるかな時代を超えて、やがてアーエルの祖父からアーエルへと伝えられ、そしてはるかな昔へと戻る、無限の時のループを描くことになります。
 
そしてまた、最終話にて、雲を割って過去の世界を通過したアーエルとネヴィリルのシムーン。その姿をかいま見たリモネが「アーエル……最上の愛」とつぶやきます。アー・エルという言葉に「最上の愛」という意味が、歴史上はじめて与えられた瞬間だったのかもしれません。ここにも、もうひとつの無限の時のループを感じさせられます。
 
さてしかし、第24話でユンによって心と肉体を解放されるドミヌーラは、それまで大変に長い年月を、ひとりきりで生きてきたことになります。何百年か、何千年か。
いつ、どんな事情で、心からのパルであるリモネと別れてしまったのでしょうか。
それは謎のままです。
第26話で、二人は再びその時代を飛び立つことが暗示されています。異なる時代へと移ったか、移ろうとしたとき、二人の身に何かが起こり、悲しみのうちに別れることになったのでしょうか。
 
ドミヌーラの肉体は妖精の粉のように変化し崩壊するきざしを見せています。彼女はコール・デクストラの最後の生き残りですから、たぶん、何度も何度も翠玉のリ・マージョンを試みては、完成の一歩手前で失敗してきたはずです。
翠玉のリ・マージョンは、完成すれば、シムーンとその搭乗者を違う世界へ運ぶだけで無害ですが、失敗すれば第1話にみるように、壊滅的な破壊力をもたらします。そんなことを何度も繰り返せば、肉体にも精神にも、とてつもないダメージが蓄積していくことでしょう。
ドミヌーラはすでに、時間的にも空間的にも、傷つき不安定な状態になりつつあったのだと思われます。
 
だからドミヌーラは、リモネよりも先に飛べなくなったことでしょう。
最終話で、リモネと新しい空へと飛び立とうとしたけれど、結局、それはできなかったのではないか。そう思います。
では、ドミヌーラはどうしたのか。
おそらく、リモネに新しいパルを探してやり、次なる翠玉のリ・マージョンの可能性を譲ってあげたのでしょう。最終話で、リモネに「私のパルになって」と誘った少女は、結局、その願いがかなったのかもしれません。
 
ドミヌーラとリモネが悲しい別れをしたことは、“泉”に建っている、翼のついた石柱からも推察されます。
 
まず、ドミヌーラとリモネが、後世のテンプス・スパティウム信仰の開祖になったと考えれば、アルクス・プリーマの聖堂に鎮座しているテンプス・スパティウムの十字架の形が説明できます。
十字架の縦の柱は二本。つまり二柱の神を示しています。とするとこれは、ドミヌーラとリモネのことですね。
しかし十字架の翼は一対のみ。つまり一人分なのです。これは、ドミヌーラが飛べなくなった……つまり翼を失ってしまったことを意味するのでしょう。
 
そして、“泉”の石柱です。
石柱は対になっていたはずなのに、一方が崩れてなくなってしまい、一本の柱と、片方の翼のみが残されています。
これは、二柱の神、ドミヌーラとリモネが悲嘆の別れをしなくてはならなかったことを、物語っているのでしょう。
ただでさえ苦渋の宿命を背負ったドミヌーラとリモネに、歴史の現実は、これでもかとばかりに悲劇的な結末を用意しているのです。『シムーン』の作品としての重厚さを感じずにはおれません。
 
 
●コール・デクストラと風琴の謎
 
翠玉のリ・マージョン完成のためだけに編成され、のちに解散後、その存在すら記録から末梢されてしまったコール・デクストラ。
物語の種明かしの回ともいうべき第21話で、やや詳しく語られますが、それでも謎に包まれています。
 
まず、アーエルのおじいちゃんが、コール・デクストラのレギーナ(小隊長)だったということ。
一方で、ドミヌーラがコール・デクストラの一員であり、最後の生き残りであることも告げられます。
 
アーエルのおじいちゃんとドミヌーラは歳が相当離れていますので、同時に同じチームにいたとは考えにくいでしょう。ということは、コール・デクストラが存在を秘密にされたまま、数十年にわたって活動し、遺跡上空で翠玉のリ・マージョンを訓練していたことになります。
その背後に、オナシアの意図があったことは、間違いないでしょう。
ドミヌーラがメンバーに参加してくるまで、コール・デクストラを続けなくてはならなかったということですね。
 
また、アーエルがおじいちゃんからもらった風琴が、蓋をしたまま、遺跡で曲を奏ではじめるのは、なぜでしょうか。
 
翠玉のリ・マージョンを何度も何度も試みられた遺跡では、時間と空間がいささか変調しているといいます。そのような場所で、ひとりでに風琴が鳴りだしたのは……
おそらく、その昔、コール・デクストラに参加していたおじいちゃんが、その場所で何度も風琴を聞いていた。その音が時空を超えて、アーエルが持ってきた風琴によみがえったと考えてもいいでしょう。
古代シムーンのコクピットに、アングラスの遺体が移動したのと同じように、この、遺跡という、時空が変調した場所では、風琴の音が時空を超えて、響いてくるのです。
 
そして、アーエルの風琴は……
アーエルにとって、肌身離さない宝物です。
最終話、おそらくアーエルとともに、旅立っていったことでしょう。
それが、はるかな時を超えて、アーエルのおじいちゃんが持つことになるとは……
その、アーエルのおじいちゃんが若いころに、コール・デクストラに参加してくるのを、もちろんオナシアは知っていたわけですね。いやはや、複雑……
 
 
●アーエルとネヴィリルの行方の謎。そして嶺国の十字架。
 
物語のテーマそのものに関わる、最も大きな謎として残されたのは、アーエルとネヴィリルの行方ですね。
二人は、どこへ行ったのでしょうか。
 
手がかりは、あります。
 
「私はどこにでもいる。どこにもいない」と語ったオナシア。
思えば、オナシアがこの世に存在したこと自体が、“翠玉のリ・マージョンがこの世界にもたらしたもの”の結果そのものでしたね。
翠玉のリ・マージョンで旅立った少女たちは、何をなしたのか?
その、回答のひとつが、はっきり示されている。
それは、オナシア自身ではないか……!
背筋がゾクゾクするほど、すばらしくSF的な結末でした。
 
テンプス・スパティウムの信仰の中心的存在となり、ある意味、皮肉にも、“歴史の守護者”になってしまったオナシア。
 
では、アーエルとネヴィリルも、同じような役割を果たすことになったのでしょうか?
 
そう考えることもできます。
嶺国の巫女たちは、第8話で、ネヴィリルたちに、「私たちも、もともとは同じ神を信仰している」といったことを語っています。
最終話では、“希望の大地”というキイワードも、共有されていたことがわかります。
 
そして。嶺国の信仰の象徴である十字架のデザインは……
Y字形にかけあわさった二つの柱に、二対の翼……
二柱、つまり二人の神様が、それぞれ時空を飛ぶ翼を持っておられる。
これは、アーエルとネヴィリルが首にかけていた信仰のペンダントを、重ね合せた形なのです。
そして、「アー・エル」が、“最上の愛”を意味する、それも、よほど大切なときにしか口にしてはならない、聖なる言葉として位置付けられていること。
キリスト教の「アー・メン」に似て、神を讃え、あるいは神を呼ぶ言霊として、特に聖別されている言葉のようです。
 
アーエルとネヴィリルは、神になったのではないか。
それも、はるか後の時代に、宮国に敵対することになる嶺国の信仰の象徴に……
ならば、嶺国の巫女たちがしっかりと守り続けた、その信仰の心が、ついに第25話で、なんと、アーエルとネヴィリルを飛び立たせてくれたことになるのです。
ある意味、歴史の皮肉。しかし、なんと美しい結末であることか。
 
きっと、そうなのだと、私は思うのです。
 
しかし、それだけではありません。
 
 
●どこにもいない、けれど、どこにでもいる。
 
最終話の冒頭、過去の村の場面で、翠玉のリ・マージョンによって旅立っていく少女たちの使命が語られています。
 
「以前は咲くことのなかった花、以前は実ることのなかった作物。新たな幸いを我々にもたらしてくれる……」と。
 
このあたり、信仰に身を捧げて殉教した人たちが、聖人に列せられ、人々に祀られることに通じるように感じられます。
 
アーエルとネヴィリルも、そうやって、どこへ行けるのかわからない不確かな運命に身を委ねて、人々の幸せを願い、“希望の大地”へと旅立っていった、数多くの少女たちのひとりに加わったことになるのでしょう。
 
時空を超えて旅し、未来から過去へ降り立ち、あるいは過去から未来へ飛んできた少女たちは、歴史を変え、“新たな幸い”をもたらしてくれる……
しかしそれは必ずしも、世界史を引っ繰り返す大事件とは限らないのです。
 
ある日、ふと気付くと、道端に花が咲いている。今まで見たこともない花だけど、ずっと昔からそこに咲いていたのだろうか?
 
そんな、小さな出来事になって現れることの方が、むしろ自然なのだと、『シムーン』の最終話は私たちに教えてくれます。
 
そう、最終話のいちばん最初のシーンで、森の中にリモネがふと見つけ、一輪を摘んだ花が、そうだったかもしれないのです。
もしかするとこの一輪の花は、今日旅立つアイラとハンナが、時を超えてもたらしてくれたものかもしれない……
シムーンに乗る二人を見送るリモネが涙ぐむ、その気持ちが伝わってきます。
 
旅立っていったアーエルとネヴィリルも、そんな、小さな“新たな幸い”を今にもたらしてくれたのかもしれません。歴史の因果がつむぐ、数限りない、小さな出来事になって……
 
ワウフの妻と娘、モリナスのおめでた、エリフの元気。パライエッタとロードレアモンが聞く子供たちの笑い声。カイムとアルティを濡らすにわか雨。二人の家の前に、遙かな時を超えて咲き誇る、リモネが摘んだのと同じ花。ユンに訪れる静寂、フロエの野菜たち。そしてアヌビトゥフとグラギエフに吹く、ここちよい風。
 
そんな、ちょっとした小さな出来事も、シムーンで旅立った少女たちがもたらしてくれたのかもしれない。たとえ実際にはそうでなくても、そう信じることができれば、それこそが、幸いではないか。
 
それが、祈りなのでしょう。
「祈る」とはどういうことか。
「信じることが、幸いになる」ことではないでしょうか。
 
最終話で、ついに、翠玉のリ・マージョンで少女たちが旅立つ、その意味がはっきりと語られます。
アヌビトゥフのセリフ。
「意味などという言葉に、何の価値もないのです……意味を見いだしたとすれば、彼女たちは選ばなかったでしょう」
 
希望を信じて飛び立つ。
それは、幸せそのもの。
それが、生きているということ。
それが、死を不幸にしないこと。
それは、私たちの存在そのもの。
だから、意味も理由もない。
 
そういうことだと思うのです。
マミーナが生きていたら、きっとこう言うでしょう。
「人は、生きている証を得ることで、幸せに死ぬことができるのよ」
 
“生きている証”……それは、決して大きな事である必要はない。人ひとりの魂を救うことさえできるならば、どんなに小さなことでもいいのです。
 
“生きている証”。それもまた、小さな“新たな幸い”と同じものといえるのかもしれません。
 
だから……
じつは、この世に生きているだれもが、シムーンで旅立った少女たちのように、小さな“新たな幸い”を残していくことができるのでありましょう。
 
オナシアは自分を「どこにでもいる。どこにもいない」と言いました。
しかしそれは、「どこにもいないようで、どこにでもいる」ことでもあります。
この世に生きて、そして生きたからこそ死んでいった無数の人々が残した小さな幸せこそ、「どこにもいないようで、どこにでもいる」ことではないか……。
 
ならば、アーエルとネヴィリル、そして登場人物のだれもが、男女の区別なく、あなたの分身。
あなたも、そうなのですよ、と『シムーン』は告げているのです。
 
最終話の、最後の映像。
パライエッタたちが落書きした、みんなの姿。
画面の右から左へ、少女たちの姿が順番に映り……
そして、何も描いていない壁が、この物語の最後の最後の一瞬となります。
何も描いていない壁。
でも、何もないのではありません。
 
そこには、あなたがいるのです。
 
 
 
何度見ても、涙を忘れえぬ、至高のラストシーン。
『シムーン』こそ、この言葉が捧げらるべき作品でしょう。
「アー・エル」と。
 
 
●これぞ、日本のSF
 
『シムーン』はまた、日本人が作った、日本独自のSFであります。
 
宗教と科学、祈りと戦争の見事な対比を横軸に、
過去と未来、本当の意味で歴史をつむぐ“新たな幸い”の伝承を縦軸に、
「どこにもいない。どこにでもいる」という死生観に立って、
人が生きること、その存在の意味にまで結論を出した超傑作。
 
架空の世界の物語でありながら、
現実の歴史との結節点として、
日本の戦中と戦後を、下敷きにした、この巧みさ。
 
戦うシムーンと、カミカゼとの類似性。
旅立つ少女たちに重なる、殉教者のイメージ。
敗戦と、他国による占領の現実。
それでも、未来に希望をつなぐ人々。
そして戦後の冷戦。
 
それは、21世紀の今を生きる、私たち日本人の歴史を、
鏡のように、ファンタジーに映したものでもあるのです。
 
戦争に敗けた国であるからこそ、
生み出すことのできる、いたわりの物語。
 
太古の村で、路傍の花にふと目をやり、
“新たな幸い”を思うリモネの心情こそ、
この殺伐の21世紀に、私たちが取り戻したい美しさなのだと……
 
この作品は、突然に現れたものではありません。
1997年、『少女革命ウテナ』が求めた、永遠の友情と、
2001年、『ノワール』が突き詰めた、永遠の罪を、
2006年、『シムーン』が、SFの世界で描き直し、
新たな次元へと見事に昇華した、永遠の少女たちの物語。
 
日本のSFアニメが到達した、まさに至高の領域。
しかも、ノベライズは不可能でしょう。
最も大切なテーマの部分が、文字だけでは表現しきれないのです。
だから、この作品は、誰にも超えられません。おそらく永遠に。
 
 
●至高なれアルクス・プリーマ!
 
それでは最後の謎。
アルクス・プリーマを沈めたのは、だーれだ。
絶対に、ワポーリフたちですね。
 
最終話で、アーエルとネヴィリルのシムーンを追い掛けて、嶺国の巫女たちのシムーンが飛び立った直後に言った言葉。
「……我々も自分のことを、するぞ!」
そして、強い決意のこもった表情で駈けてゆくメカニックたち。
 
そうです、いまや占領軍の手に落ちてしまったアルクス・プリーマ。
この先、他国に接収され、軍艦として人殺しに再利用されるのを防ぐためには、自沈しかなすすべがありません。それが、聖なるシムーンを抱いた誇り高き母艦の、最後の選択でした。
 
艦長のアヌビトゥフやグラギエフも、思いは同じだったでしょうが、占領軍の監視下に置かれ、なにひとつ動くことができません。
ワポーリフ以下の優秀なメカニック集団に、その使命が委ねられました。
「自分のこと」……それは「自分たちにできること」。
シムーンのメカニズムを熟知し、ヘリカル・モートリスを探究したワポーリフたちだからこそ、なしえた仕事。
おそらくは、長時間の時限装置か、ある高度以上に達したときに作動する装置によって、アルクス・プリーマの超巨大ヘリカル・モートリスが停止し、飛行能力を失うようになる仕掛けが、ひそかに取り付けられたのでしょう。
 
その日、そのときに、大空から落ち、湖に沈んだアルクス・プリーマ。
夕陽に染まってたたずむ、廃船。
その姿は哀れですが、しかし、毅然とした風格は損なわれていません。
敵に支配されて屈することなく、孤高の自由をかちえた雄姿でもあるのです。
 
 
これぞ、男泣きの場面ですね。私は泣くぞ。
 
だから、アヌビトゥフとグラギエフは、湖畔から、穏やかな面持ちで、アルクス・プリーマをながめることができたのです。
アルクス・プリーマは堂々と生きた。これは無念の死でも非業の死でもない。生き終えた船の、安らかな眠りなのだと。
 
もっとも、そんなことをしたものだから、ワポーリフは最終話で商船船長となったワウフから、「恨まれたらたまらん!」と恐れられるはめになってしまったと、推察されるのですが……
 
 
●『シムーン』、思春期のレクイエム
 
シムーン。それは、乾いた大地を吹き渡る、熱き風のこと。
その昔、童心の飛行家サン=テグジュペリを灼熱の砂漠へ運び、『星の王子さま』の世界へといざなった愛機の名前。
空に祈り、空に戦い、空に逝った彼の思いが、聖なる神の乗機シムーンに重なります。
 
『シムーン』、この物語は、神聖な祈りを戦争の道具に使われ、巫女どころか忌むべき兵器として扱われ、人格まで否定されてしまった少女たちが、一途な思いで“生きている証”をつかみ、勇気をもって死と対峙し、ついに魂の救済を得るお話でした。
かくも美しい作品が生み出されたことは、まさに奇蹟だと思います。
シムーンとともに羽撃き、蒼天へ昇りゆくアーエルとネヴィリル。
その姿は、かつて少女だったあなたに、夢あふれ純真だった自分をよみがえらせ、かつて少年だったあなたには、夢あふれる純真な少女に恋した自分を思い出させてくれるでしょう。
 
『シムーン』、狂おしく切ない思慕の物語。
風のように去って還らぬ、あなたの思春期に捧げられた、清麗なるレクイエム。
あれから、今……
湖に自沈した、母なるアルクス・プリーマ。
思い出を閉じこめた柩となった、その場所には、夢あふれる純真な少女たちの魂が、朽ちることなく息づいています。
喇叭型の蓄音機が奏でる、古風なタンゴの調べとともに。
 
シムーン。熱き夢の風よ。永遠に……
 
 
(つづく)
 
 
 
 
※一度追加した『●もうひとつの“彼女たちの肖像”』の章は(3)へ移動しました。
 
 


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