Essay
日々の雑文


 36   20071008●雑感『ソノラマ、新たなる旅立ち』
更新日時:
2007/11/18 

20071008
写真はHMYブリタニア号の後甲板(2007.8)
 
ソノラマ、新たなる旅立ち
 
 
 
●ソノラマは滅びず
 
2007年10月6日、京都SFフェスティバルで、お話をさせていただきました。
セッション名は『さよならソノラマ文庫』。
私が喋った部分を、ここで再録し補足します。
 
誤解を避けるために申し上げておけば、朝日ソノラマという会社が倒産して、作家の皆さんがソノラマ難民となったわけではありません。子会社が、親会社の朝日新聞社に吸収されたもので、ソノラマのスタッフの皆さんは朝日新聞の東京本社へ居を移して、これまでの仕事を続けておられます。
 
『ソノラマ文庫』というレーベルはいったんなくなったものの、朝日文庫の中で作品が発表されますし、ソノラマノベルスはそのまま残っています。
業容は縮小分散されたけれど、ソノラマの灯は消えず、新たな戦いが始まったというべきでしょう。
 
思い返せば、ソノラマはとてもよいところでした。
なんといいますか、自然に恵まれた、山間ののどかな分校みたいな雰囲気。木造校舎の教室で、編集さんと作家たちのおだやかな交流が育まれていました。
教室では、数人の優しい優等生さんが売り上げを稼ぎ、それほどでもないクラスメートや、私みたいなおちこぼれ作家も仲良くダルマストーブを囲んで、みんなで給食を分け合っていました。
この教室の方針は、自由放任。
 
私も、文庫デビューできたころに、菓子折りを持ってご挨拶にうかがいました。
そこで編集さんに聞きました。
「いつでも操を捨てて裸になります。Hでもバイオレンスでも、何でも喜んで書きます。なにをどんなふうに書きましょうか?」
答えはこうでした。
「あなたがよいと思ったことを、あなたの好きなように書けばいいのです」
これはもう、罪深き娼婦を諭す、教会の牧師さん……
という気もちらりとしましたが、書き手として、「好きにやりなさい」とは、最高にありがたいお言葉でもありました。途方にも暮れましたが……
 
以来十二年、好き勝手で書かせていただきましたが、素人兼業作家の悲しさ、SF退潮のムードを変えるには至りませんでした。
しかしソノラマは滅びてはいませんし、滅ぼしてはならないと思うのです。
 
 
●華やかなりし時代
 
ソノラマ文庫は、70年代から80年代にかけて、実に先駆的なSFメディア戦略を展開されました。
ソノラマ文庫の劈頭を飾る『宇宙戦艦ヤマト』。のっけから、活字の世界は映像の世界とはちがうのだ、ということを少年読者たちに教えてくれた、ショッキングな一冊でした。うろ覚えですが、たしか古代のお兄さんが、死んだはずなのにハーロックもどきの機械人間になってよみがえっていたような……
アニメと全然違うその展開、純真な少年読者たちは「ゆ、許せない……」と怒ったものです。
そして続いた『機動戦士ガンダム』全三巻。
純真な少年読者たちは、またまた大ショックを受けました。
アムロ君がセイラさんと、あんなことをしてしまうなんて。そしてアムロ自身も、最後はあんな姿になってしまうとは……
ああ無情。
両足が影のように薄くなったアムロ君を想像して、アニメと全然違うこの結末に、少年読者たちは嘆いたものです。
「オトナはみんなウソツキだ……」
 
でも、今はもう、映像と異なるストーリーの活字ノベライズはあたりまえになってしまいましたね。映画とアニメとマンガと小説で、それぞれ結末が違っても、だれも驚きません。それだけソノラマ文庫の試みは、時代に先んじていたと思います。
 
さらに読者を引き付けたのは、安彦先生の挿し絵で登場した『クラッシャージョウ』。
純真な少年読者たちは、とにかく表紙を一目見るなり、中身そっちのけで買ってしまったものです。なにせアルフィンが可愛かったので……(高千穂先生、ごめんなさい。もちろん本文もおもしろかったです!)
 
このように、当時のソノラマ文庫は、映像とは異なる活字世界の構築といい、挿し絵キャラで売る新商法といい、業界に先駆ける勢いがあったのです。
 
しかしその後、ライトノベルなる、意味不明で怪しげなジャンルを標榜するキャラ中心の文庫群が他社から続々と刊行されるにおよんで、われらソノラマ文庫の領土はじわじわと蚕食されてしまったのでした。
 
そして21世紀。
かつてソノラマ文庫が、参入他社と競った書店の棚は、すっかり様変わりしてしまいました。
目につくのは、みんなファンタジー。
それも、萌え系美少女キャラがマサカリ振りかぶって悪魔の首をばっさりとチョン切るような、まるでどこかの殺人事件を連想させるような、殺伐とした表紙が並ぶようになりました。そうでなければ、学校の制服やメイド姿の萌え系美少女キャラが下着をチラ見せするオタク・コメディでしょうか。
ライトな文庫市場は、ヲタクたちに席巻されてしまったのです。
 
 
●ヲタクの侵食、その堕落
 
ヲタクを非難するつもりはありません。
しかし、20世紀と21世紀とでは、同じ「オタク」という言葉の意味に、大きな違いが生じてしまったことは認めなくてはなりません。
 
前世紀の90年代、オタクたちは世間から「変人」として疎外されてはいましたが、その反面、「変わり者だけど、一芸に秀でた天才」という前向きの評価もされていました。
当時の実写映画『七人のオタク』では、ミリタリーやコンピュータ、格闘技など一芸においてプロを超える能力を持ったオタクたちが集まって、少女誘拐事件を解決するという、時代のヒーローにすらなっていたのです。
オタクは変人。しかしその異才が集まれば、凄いプロ集団ができる。
社会はオタクたちを、意外と高く評価していたのです。
アニメの『無責任艦長タイラー』や『機動戦艦ナデシコ』も、オタクな乗員が集まることで宇宙最強の戦艦が活躍する……という組み立てになっていました。
オタクである我々は変人である。社会から疎まれている。しかし見ておれ、一芸に秀でたオタクたちは社会を変える活躍ができるのだ!
……そんな大志を、当時のオタク青年たちは抱いていたと思うのです。
 
しかし、21世紀……
オタクたちの描かれ方は、悪夢の如く急転落します。
実写映画の『電車男』。主人公のオタク君は、パソコンのネットに助けられて彼女をゲットしますが、本人には、オタクであること以外に、なんら特殊な才能はありません。ネットそのものは、だれにでも使えるメディアなのです。
そしてアニメの『げんしけん』や『NHKへようこそ』に描かれたオタクたちは、まさしく、オタクであること以外、なにひとつ存在意義のない人物になってしまいました。オタクという手段が目的化し、オタクであることがレーゾンデートルになってしまったのです。また『涼宮ハルヒ』シリーズに至っては、徹底的に“日常化されたオタク”が描かれていて、要するにその作品世界では、だれもが一律にオタクなのです。
もう、自分がオタクであることを恥じる時代ではなくなりました。大衆の一部なのです。
 
そのかわり、オタクたちの“特別な才能”も消えてしまいました。
ただ、オタクであり続ける以外、特段の目標もココロザシも持たない人たちが、じつは大量に出現してしまったのではないか?
アキバの群衆を見るにつけ、あるいは、ネットで気に食わない作品をけなしまくる人々を見るにつけ、そんな、うすら寒い思いが、じわりと湧いてきます。
 
国のお役所がオタク文化の産物を「コンテンツ産業」ともてはやす影で、オタクたちはただオタクでしかなく、オタク文化の産物をひたすら消費しまくるだけの、家畜的経済動物に堕落させられてしまったのではないか?
 
そうだとすると、もはやオタク文化に未来はありません。
手を変え品を変えて、ひたすら美少女キャラを送り出し、フィギュアとDVDを売り続けるだけの、閉塞的な下降スパイラルに陥ってしまったのです。
 
 
●アニメ文化の落日
 
さて、ようやくオールドファン待望の『機動戦士ガンダム』劇場版三部作の、オリジナル音声版DVDがボックスで出ることになりました。
まことに喜ばしいかぎりです。
しかし、ちょっとまてよ?
じつは七年前、この三部作はDVDになっていました。
しかし音声が全部吹き替えなおされていたのです。基本的に同じ声優さんの声で。
七年前の当時ですら、原版の作品公開後二十年が経過しています。
声優さんも、二十年、歳を重ねておられまして……
やはり声の調子がどうしても年令を感じさせ、落ち着いた重厚さが拭えません。
アムロをはじめとした十代のキャラの声が、どうしてもあの青春っぽい張りのある若者の声というわけにはいかなかったようです。
個人的には、“枯れたガンダム”もひとつの味わいかとは思いましたが……
にしても、オリジナル音声版が出るまで、七年待たされたファンの忍耐は推して知るべしでありましょう。
そしてついに、とっておき、ここが最後の超目玉! とばかりに、登場するわけですが、この現象、裏を読んでみると、要するに、最初のファーストガンダムが放映されてかれこれ三十年、ファーストガンダムを超える作品を、サンライズは出せなかったということを物語るのではないか……ということなのです。
 
同様に、この秋、『新世紀エヴァンゲリオン』の“新劇場版”が公開されました。たいへんな人気ということで、ファンとしても喜ばしいかぎりですが、これも裏返せば、最初のエヴァンゲリオンを超える作品を、ガイナックスは作り出せなかったことを物語っているのではないでしょうか。
 
ニッポンのアニメは、それだけ、進歩してこなかったのかもしれません。
それどころか……
 
『エヴァンゲリヲン新劇場版』のパンフレットで、総監督が語られています。
「疲弊しつつある日本のアニメーション」「蔓延する閉塞感」「中高生のアニメ離れが加速」……
ここ四半世紀、日本のSFとともに歩んできたアニメ文化は、まぎれもなく存亡の危機に瀕しつつあります。素人の私でも、昔の作品を比較してみれば、一目瞭然です。
 
40年前の東映アニメ『太陽の王子ホルスの大冒険』、あの背景美術の神秘的なまでの美しさを超える作品は、いまだ現れていない。80年代の『天使のたまご』にみる発想の凄さや、『ヴイナス戦記』にみる構図(レイアウト)の見事さ、90年代の『アリーテ姫』にみる哲学性、『カウボーイビバップ』の壮快感と切なさ。それらを超える作品は、21世紀に現れていない。
手描きのセル画にこめられた、当時の製作者の情念と信念は、現代の若者たちには、もう、超えることはできない。残念ながら、そう断言してもいいと、私は思います。
 
聞いてみればよろしい。今、アニメを作っている若者たちは、アニメやマンガは数多く見てきたはずだけど、それならば半世紀前の白黒映画の名作、たとえば『カサブランカ』や『市民ケーン』や『第三の男』はちゃんと見たのだろうかと。ましてや、80年も昔の『メトロポリス』をまさか見ていないというのだろうか?
 
これはおそらく、SFを含めたライトノベルの世界でも同じことです。
いつのまにか、作者も読者も、過去の作品を忘れている。
現在の自分しか見えず、過去を思い返し、歴史に学ぼうとしなくなった。
それがどうしたって? いやいや、とても大事なことだと思うのですよ。
過去を振りかえることのできない者に、未来が見えるはずがないのですから。
 
 
●現在(いま)しか見えなくなった人々
 
こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、過去も未来も考えず、ただ現在しか見えなくなった人々が、急速に増えているのではないでしょうか。
 
大きな原因は、社会的な格差の拡大です。
年収三百万円以下の人々が、一千万人を超えています。
ただそれだけなら、80年代以前の数字とそう変わらないとも言えます。
しかし、質的には正反対です。
昔は、「今、年収三百万円でも、真面目に働けば生活はよくなる」と、未来に希望を抱くことができました。
今は逆です「今、年収五百万円でも、頑張ったところですぐに三百万円に落ちてゆく」という、未来に絶望する時代なのです。
希望のある年収三百万でなく、絶望の年収三百万。その逆転現象は、人々の心を確実に蝕んでいます。
コンビニでパンを一個万引きした人が店長に暴行されて死亡しました。そして逆に、万引きした犯人を追い掛けたコンビニ店長が刺殺されました。
数百円のことで、殺されてしまう時代。
お産のせまった妊婦さんが、病院をたらい回しされたあげく、死産、あるいは自分自身も亡くなられてしまう。国は出生率の低下を嘆いているというのに、産んでも育てられない子供を捨ててしまう母親……
いったい、どこの国のことなのか。
未来に希望を抱いて生きていた二十年前には、考えられなかった未来です。
当時、こんなに惨めな思いで生きるしかない21世紀を、だれが想像したでしょうか?
 
絶望に毒された人々は、未来を夢見ることをやめます。
ただ「現在がよければいい」と考えるようになります。
実際問題、自分一人が、今日をどう生き延びるかを考えるのに、精一杯になるのですから。
 
そして、もっと困ったことは……
未来に対して夢見るゆとりがある人々も、現実の悲惨から目をそらして、「今がよければいいじゃないか」と考えるようになることです。「未来のことなんか、考えたってどうにもなりゃしなさいさ」とばかりに……
 
ミャンマーで、日本人カメラマンが射殺された。そのことに対して各国の関係者たちは抗議の声を上げたけれど、肝心の日本人たちは無関心で、発言ひとつしない。
なんとも、不気味な社会になったものです。
 
何を聞いても言われても、「だからどうなの?」と知らぬ顔をして、萌え美少女のフィギュアを愛玩して、自分の思うとおりになってくれる女の子の妄想にひたって日々を送るオタクたちが、市中に、ひそかにあふれつつあるのかもしれません。
 
 
●スペースオペラが売れないわけ
 
過去と未来に関心を失った人々にとって、SFは用のないものになってしまいます。
現在を楽しめればいい、となれば、難しい言葉を使ったお話など、読むのが面倒になるだけです。
もともとSFは、空想の産物です。
その作品を読むためには、空想することが必要です。想像力が必要になります。
とりわけスペースオペラになりますと、舞台は銀河宇宙。
宇宙は真空ですよ。何光年という距離を走らなくてはなりません。銀河系はこんな形をしていて、惑星は恒星の周りを回っているのです。少なくとも太陽系では、火星の方が地球よりも太陽から遠いのです。
そういったことを、想像し、その上でストーリーを理解しなくてはなりません。
それがもはや、面倒くさいと敬遠されているのです。
太陽系の八つの惑星の名前を覚えていたって、生活になにひとつ役立たないのですからね。
 
そんな、ややこしい想像力を強いられる前に、現代の読者はおそらく、こう作者に言い放つでしょう。
「この文庫に一冊五百円を払うんだよ。さあ、それだけ楽しませてみせろよ」
 
用語説明すら必要になるスペースオペラを、努力して読もうという人は、確実にいなくなってきています。だから、現代では、売れないと思わざるをえないのです。悲しいことですが。逆に、あれこれと想像しなくたって、そのまま読めば楽しいというお話が、読まれているのです、たぶん。
 
批判的で申し訳ないのですが、『ハリー・ポッター』シリーズは、じつはあれこれと想像しなくても、文章を読んでそのまま理解していけば楽しめる仕掛けができていると思います。いろいろな背景事情がきちんと書かれています。書かれていない行間を読む努力をしなくても、読者はハリーたちとともに冒険できるように説明されているのです。
 
私としては、ハリーたちはなぜ携帯電話を持ってなくて、メールのやりとりをしないのかといったこと、あるいはコンピュータと魔法力の関係について考えなくてもいいのかと気になってしまいます。
また、アフリカの飢餓や、アフガンやイラクの現状に対して、魔法でなにかできないかと考えはしないのか、そういうことも気になります。
しかしそういった、普通に疑問を抱いてしまうことを意識せず、あれこれ余計なことを考えずにそのまま読めば、楽しい世界で冒険できます。作品として、ある意味、卓越したテクニックが駆使されていることは確かでしょう。
 
 
●感動を買う?
 
いつのまにか人々は、「感動をもらう」とか「感動をありがとう」とか言うようになりました。
でもね……
別にどうってことのない言葉ですが、けっこう違和感も感じるのです。
 
あくまで、感動するのは自分自身であって、「さあ、これで感動しなさい」と誰かから「もらう」ものではないですよね。
そこに感動できることがあっても、気付くだけの関心がなければゼロですし、あるいは自分の感性と偶然によって、思わず発見する感動もあります。他人が感動しなくても、自分の感性で、新しい種類の感動を見いだすこともあるでしょう。だからこそ、喜びもひとしおというものです。
 
なのに、今の時代は、「楽しさ」や「感動」というモノを、品物のようにやりとりできると思われているのではないか?
感動をもらう。ということは、ひょっとすると現代の人々にとって、感動も「お金を出して買える」ものになってきたのではないか?
 
ちらりと、そんな違和感が漂うのです。
「五百円払うんだ。さあ楽しませろ、感動させろ」
そんな心理が、あたりまえになってきたのでしょうか。
 
「読者は、作者にカネを払うお客様なんだから、それだけ楽しませてくれて当然だ。でなきゃ、カネ返せ」
そう考えるのが、今はわりと普通なのかもしれません。
しかし作者の立場からみたら、そんな人と友達づきあいをするのは願い下げ。
作品を出すたびに「あんたの書く話に五百円払う値打ちはない」「まあ五百円分の感動はありましたネ」などと品評されたら、たまったものではありませんね。楽しさとか感動といった、自分自身の感性に起拠するしかないことを、カネに換算されるようなら、同額を支払ってパチスロをされるか、もっと多くを支払ってメイド喫茶でも行かれた方が、より確実な投資といえるでしょう。
 
書物やDVDといった文化的商品の値段は、そのとき自分が払えるかどうかであって、そこから得られる楽しみや感動はその人次第。心から楽しみ、感動できれば、その記憶は一生ものの財産ですし、自分の未来の生き方を変えてくれるかもしれません。その感動を五百円の文庫から得たからトクで、五百万円のクルーズから得たからソンというものでもありますまい。
 
 
●黄色いハンカチ
 
私が今までで最も感動した小説作品は、ピート・ハミル作の『黄色いハンカチ』です。四百字詰め原稿用紙で十五枚程度の超短篇で、河出文庫の『ニューヨーク・スケッチブック』という本に収められています。この作品は百回も二百回も読み返しましたが、かならず涙が出ます。最高の感動があります。私にとっては。
そしてこの感動は、ただ作品をさらっと読んだだけでは、わかりません。
それこそ「だから何なの?」で終わってしまうでしょう。
しかし、あることに気付いて、その裏側を想像したとき、私はものすごい感動に泣きました。
この作品は『幸福の黄色いハンカチ』という日本映画になっています。
しかし映画ではラストシーンに根本的な違いがあって、原作とは全く別の作品と考えた方がよいでしょう。
では私は、原作の何に感動したのか。
読んだことのある人のために申し上げますと、「日本映画のラストシーンのハンカチは、奥さん一人の力でできる。けれど原作のラストシーンはどうなのか。人間ひとりで、あれができる? 常識的に、無理でしょう。奥さん一人ではできないのなら、いったいどうやって、あの不可能な情景が可能になるのか、想像してみようじゃないですか」
さまざまな想像ができます。私は感動します。涙が出ます。これからもきっとそうでしょう。
 
 
●SFに未来はあるのか
 
ですから、感動というのは、モノのように誰かからもらうのでなく、自分が想像することで、はじめて見いだし得ることでもあるのです。
想像する、という行為は、あるひとつの出来事の、過去の原因や、未来の結果を推し量ることでもあります。なぜ、こうなったんだろう。この結果のあとで、どうなるのだろう……とか。
 
そういった想像力が、今の時代は悲しいほどに、枯渇しようとしています
 
現在しか見えない時代。
 
過ぎ去ったことはたちまち消え、感動したことを心の中で反芻することもなく、昔あった大切なことは忘れ去り、それを取り戻すべき未来すら頭から消えている。
 
このような時代に、SFはいったい何ができるのか。
少なくとも「科学と、自分たちの力で、未来を善くできる」という希望が前提にあってこそ、読むことのできるジャンルです。
この、どうしようもない停滞と閉塞は、いつまで続くのか、本当に、どうにもできないことなのか。
私には、まだわかりません。しかし、小さなことでも、やっていきたい。
おそらくは、モノやカネではなく、ココロの問題なのです。
「貧しくても、屈辱に敗けたりはしない。未来に向かって守るべき誇りがある」
今の私たちに必要な物語は、そういうものではないかと思うのです。
 
 
●科学は私たちを幸せにするのか
 
SF作品のテーマを考えるにあたって、これだけは忘れるわけにはいきません。
「科学は私たちを幸せにするのか?」
 
ジュール・ヴェルヌの19世紀ならともかく、こんなセンチメンタルな質問が、この21世紀に通用するのか? と一笑される方もおられるかと思います。
しかしここ数年、私たちはこの古典的すぎる疑問に、ものすごくシビアに直面しているといってもいいのです。それは……
携帯電話。
 
ケータイこそ、前世紀のワープロやパソコンを凌駕する科学の産物として、私たちの生活に深く浸透し、人が人を管理し支配する手段としても、社会システムに効果的に組み込まれた道具の代表といえるでしょう。
ケータイは便利です。
いつ、どこにいても、世界のだれかと通信できる。
メールにもゲームにも使え、自分のケータイサイトまで持てるとあって、昔の固定電話機は足下にもおよばない、万能の自己拡張ツールにまで成長しました。
 
先日、朝日ソノラマの編集さんとお話したときにお聞きしたことですが、過去の作品を再版するとなったときに、まず問題になるのは、ケータイを登場させるように書きなおすかどうか……ということだそうです。
無理もありません。十年前と今では、ケータイに関して、社会事情が急転してしまいました。普及率が全く違うのです。ケータイを持たない人の方が、ごくまれな存在になってしまいました。
すると、登場人物がケータイを持たないと、どうにも不自然なのです。
ましてや、未来を舞台にした話で、主人公たちがケータイなしで、誰かと通信するときに公衆電話を探しているようでは、てんでSFにならないような……
 
未来を描くSFにとって、ケータイこそまさに疫病神。映画『2001年宇宙の旅』ならまだしも、『2010年』にもなると、ケータイなき登場人物が不自然に見えてしまいます。
ケータイがあると、待ち合わせで、相手を探してさ迷うことはなくなりますし、面と向かって言いにくい告白も、メールでOK。脅迫電話も宣戦布告も、上司と部下の命令のやりとりも、仕事の受発注もこれでOK。主人公がバカンスを楽しんでいて、司令官に呼び出されるときもケータイ。お金の支払いもケータイで済むし、少し未来になると、言葉の翻訳も、あるいは自家用宇宙船のリモコン操縦もケータイでやって不思議はありません。
とにかく便利です。
その意味、科学は私たちの生活を、間違いなく“便利”にしてくれました。
 
しかし、“幸せにして”くれたでしょうか。
そこが問題です。
 
ファーストガンダムの世界には、もちろんケータイがありません。まあ、ミノフスキー粒子の影響でケータイは使えなくなったという設定もできますが、これでもしケータイありとしたら、アムロがマチルダに告りたいことや、ブライトとミライの会話、セイラとシャアの密談といった、人目を忍んでこっそり相手と出会うチャンスをうかがって伝える場面などが、みんなケータイのメールにとって代わられてしまいます。
 
なんと、味気ないことか。
片思いの相手の下校を待って、偶然を装いつつ校門でキャッチ、顔を真っ赤にして差し出す恋文……といった微笑ましい情景は、すっかり陳腐化してしまいました。
直接出会っていてこそ発生する、スリリングなやりとりや、相手の顔色をうかがう会話といった趣の深い場面は、そのために工夫しないと作れなくなってしまいました。
 
アニメ『無責任艦長タイラー』の第25話で、行方不明になったタイラーを探して、部下たちが街中を捜し回る場面は、ケータイがあれば、ずいぶんと展開が異なったはずです。全員がケータイで連絡を取りながら、タイラーの出回りそうなところに連絡を入れまくり、組織的に足取りをつかんだことでしょう。
“そこまで行って確かめなくてはならない”という切迫する場面が、たちまち少なくなってしまうのです。
 
ケータイで、生活は便利になりました。
けれど、幸せになったでしょうか?
 
じつのところ、ケータイのメールよりも、直筆の手紙や直接の告白で「好き」と伝えてもらう方が、ずっとずっと幸せなのではないか。
毎日メールをやりとりするよりも、ごくたまにしか公衆電話で話すことしかできない方が、相手の言葉を大切に、真剣に聞くことができたのではないか。
だからこそ、直接に相手と会う時間が、いとおしくかけがえのないものになったのでしょう。
ケータイがなかった時代の方が、「やっと、会えた……」という言葉に、大きな意味と感激があったのではないか。
 
そう思えるのです。その証拠に……
 
数々のライトノベルのファンタジーは、舞台が異世界。
そこは魔法と剣士の世界で、ケータイはありません。
これほどケータイが普及していながら、読まれる物語は、ケータイなしの世界なのです。
もしもケータイが私たちをより幸せにしてくれているなら、ケータイによって幸せになるドラマが放映され、ケータイで幸せをつかむ話を楽しんで読んでいることでしょう。
 
しかし、そうはなっていません。
 
私たちはみな、本当はケータイによって、それほど幸せにはなれなかったようです。
一方で、怪しい不法サイトの横行や、ケータイのメールによるいじめ行為など、陰湿な弊害はきちんと起こっています。
 
そして昨今、ヒットした日本映画は……
『三丁目の夕日』。昭和三十年代の昔話です。
 
ケータイなくして生活できない近未来のSFは、ヒットしそうにありません。
みんな、どっぷりとケータイに依存しながら、本心は、いいかげんケータイに疲れているのかもしれません。誰もが持っているから手放せないのであって、本当は電源を切っておいた方が、ほっとして人間らしい解放感にひたれるのではないでしょうか。
 
ケータイは、私たちを幸せにしたでしょうか。
ケータイは科学の産物です。とても高度な、科学技術の集積体です。
ならば科学は、私たちを幸せにしてくれるのでしょうか?
 
じつはこれこそ、最も今日的なSFのテーマなのかもしれません。
 
 
●新たなる旅立ち
 
ところで、京都SFフェスティバルで私がお話させていただいたセッションの名前は『さよならソノラマ文庫』でした。
しかしながら……
私見ですが、「さよなら」はちょっと不吉ですね。
なぜならば、「さよなら」ときたら「銀河鉄道999」。
「さよなら」ときたら「ジュピター」。
恐れながら、どちらも、いまひとつ後が続いていません。
ここは、タイトルを「さらばソノラマ文庫。愛の戦士たち」に変えておきましょう。
ということで……
来年は「ソノラマ文庫、新たなる旅立ち」。
再来年は「ソノラマ文庫よ永遠に」とやりたいものです。
あくまで冗談ですが、それくらいの気持ちで、明るい未来をつくりましょう!
 
 
 
 


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