Essay
日々の雑文


 31   20070104●雑感『謹賀新年2007』
更新日時:
2007/01/07 
謹賀新年2007
 
『げんしけん』から、
『涼宮ハルヒ』と、
『NHKへようこそ』の、彼方に
見えるもの。
 
 
 
 
 
●一年を振り返ると……
 
気がつけば、もう2007年。
無理矢理にタイムマシンに乗せられて、別段行きたくもない未来へ飛ばされていくような、妙にスピード感のある昨年でした……。
 
思えば2006年も、良いことはなかったですね。
マンションの耐震偽装、ライブドア事件、村上ファンド事件、タウンミーティングのやらせ事件、いじめ自殺とその隠蔽、高校どころか中学にも及ぶ必修漏れ事件、談合三兄弟とも言ってあげたくなる知事逮捕、『近未来通信』の出資問題、関税を誤魔化す闇ポーク事件、派遣労働者を陥れる偽装請負事件……
大人はみーんな、ウソツキでした。
 
NHKと社会保険庁の後を断たない不祥事、自治体の裏金隠し、飲酒等による交通事故問題、実の子に対する虐待事件、児童殺人、外国人容疑者の相次ぐ国外逃亡、そして某国の核実験……
大人はみーんな、ワルモノでした。
 
親兄弟すら信用できない……そんな絶望的な空気が蔓延しているようです。
 
社会は日々、安心感を失ってきています。私の身近でも、毎日の通勤途上で身の危険を感じる車が増えてきました。歩行者の存在を無視して歩道側へ強引な幅寄せをする、横断歩道を塞ぐ停止や違法駐車、そういった光景を毎日のように見掛けるようになりました。私自身、青信号で歩道を渡っているときに右折してきた車に跳ねられそうになり、必死で飛びのいたものの、タイヤが足に接触して、飛ばされたことがあります。雨の夜です。車は一旦停止してこちらの様子をうかがうと、そのまま走り去っていきました。
 
正月早々に暗い話ばかりで恐縮ですが、SFやファンタジーといった夢物語にしばし耽溺するゆとりすら、この社会は与えてくれそうにないようです。
 
ニートやフリーターの雇用問題、それにパートや派遣労働者の実質的な待遇の問題が、昨年からしきりに聞かれるようになりました。
心底ぞっとさせるような、産業構造の変化が起こっていることと思われます。
恐るべき低賃金の世界が、この国の中に出現したということです。
なぜでしょうか。
 
私の主観では、こう思います。
二十年ほど前、“産業の空洞化”が問題にされました。主に製造業が、為替レートの関係で、低賃金で労働力を確保できる発展途上国へと生産工場を移転し、その結果、国内の下請け企業やその労働者が行き場を失うという問題です。
しかし外国での生産は、現地の政情不安といったカントリーリスクがつきものですし、発展途上国の経済発展に伴って賃金水準も上がり、必ずしも利益を上げるとはいえなくなってきました。そうなると、より労働力の安価な国へと工場を移転することになりますが、そうするとまた莫大なイニシャルコストを必要としますし、貧しい国の人々から強引に搾取しているといったマイナスイメージを生む恐れもあります。テロの標的にでもなれば、企業全体の存亡にも関わりかねません。
 
それらの問題を恒久的に解決する手法はないのか。
あったのです。決定版ともいえる解決方法が。
永久に低賃金で働く人たちの国を、この国の中に作ってしまえばいいのです。
 
そうすれば、国内において、低リスクで低コストの生産が可能になります。国際テロや経済変動や輸送などによるコストを低減でき、技術の海外流失も食い止められます。
誰かがそう意図したかどうかはわかりませんが、実態をとらえれば、この国の中に、“低賃金労働者の国”が、2001年の同時多発テロ以降、着々と作られてきたのではないか……と思わざるをえないのです。
 
これまで海外の政情不安な国にあった生産工場は、いつのまにかじわじわとUターンして、国内に回帰しているのではないか……。しかしその行き先は、この国の中に作られた、国境線のない“低賃金労働者の国”……
その国で働く人たちは、来週もこの職場にいられるのかわからない、福利厚生も各種の保険も適用されない。残業代も、いや法定の最低賃金すら払ってもらえるのかどうかわからない……。そんな“低賃金労働者の国”に閉じこめられたまま、一生、死んでも脱出できないとしたら? 
 
そんな国が、SFやファンタジーの架空の国ではなく、私たちの人生を左右する、現実の問題として目の前に現われてきたことは否めないでしょう。
 
 
●人を人と思わなくなってきた?
 
新年早々、トイレの話で恐縮ですが……
先日、大きな駅の男性トイレに入りました。中は込みあっていて、男性の小用便器はほぼ満員状態でしたが、その中で、ひとつの便器の前でしゃがんで、ピンクの制服姿の、女性の清掃員さんが黙々と便器を掃除していました。さすがにその左右の便器で用を足す男性はいなかったようですが、二つ隣の便器には男性が立って使用していました。
たぶん十年くらい昔は、トイレの入口に「清掃中」の札がかかって、当てにしてやってきた男性はちっと舌打ちして、別のトイレを探して立ち去っていたことと思います。それがいつのまにか「清掃中ですがご使用いただけます」という札に替わり、そして今は、そんな札すらなしで、男性たちが並んで次々と使用している中、黙々と清掃作業が遂行されている……
 
なにやら違和感にまみれながら、私は清掃員さんから最も離れた便器が空くのを待った次第ですが、この状態を、そういうものかな、と思うと同時に、それでいいのか? という疑問もつきまといました。トイレは厠であり“はばかり”とも言いました。やはり他人の目をはばかるのが、トイレのマナーの基本であると思います。
便器を掃除するのが清掃員さんの仕事とはいえ、その左右1メートルの距離で、しかも清掃員さんの目の高さで用を足している人々を見るにつけ、その行為には、どこか異様なものを感じずにはおれないのです。もしもその状態があたりまえになり、女性の清掃員さんの存在を全く気にかけずに、男性たちが用を足すようになっていったら……
 
いつのまにか、私たちの人間観が変わってしまい、人を人とも思わなくなっていくのではないだろうか……と、不気味な不安を感じるのです。
 
しかもこれは、SFやファンタジーの架空の国ではなく、私たちの人生を左右する現実の世界の、ごくあたりまえな風景なのです。『ゲド戦記』のキャッチフレーズしかり、世界がどこかおかしくなってきたのではないか?
 
“負け組”になってしまった社会的弱者に対して、手を差し伸べるのでなく、あたかもそこに誰もいないかのようにあっさりと無視して踏み付けていく、そんな社会になってきたのではないか?
 
 
●ネットがなくてもいい?!
 
元旦の毎日新聞の一面に『ネット君臨』という連載記事がありました。『2ちゃんねる』に代表されるネットの掲示板に匿名で書き込まれる、根拠のない誹謗中傷の渦、そして、そのような情報をいとも簡単に信じてしまい“祭り”に火をつける“2ちゃんねらー”たち。それら記事内容への賛否はさておいて、“匿名”で“ネットを介して”なにかを書き込むとき、回線の向こうには受け手の人がいて、その人は生身の人間で、傷つきやすい心も持っていることを、私たちは忘れがちになっているのではないでしようか。
 
実名で手紙を送るときには絶対に書かないような、失礼で欺瞞に満ちた言葉でも、匿名でネットの掲示板ならば平気で書き込む、そのようなことを大人たちがやっているようでは、子供たちの“いじめ”がなくなりはしないと思うのです。
 
掲示板の書き込みによるいじめが原因で、自殺する人もいるという時代。そろそろ、このようなネットの在り方を考え直す時期ではないか。『2ちゃんねる』が始まったのは1999年だとか言います。巨大掲示板というのは、せいぜいここ数年の現象であり、それ以前は、なくても世の中はちゃんと回っていたのですから。
 
なくてもいいのではないか?
 
それくらい、発想を逆転してもいいかと思います。
 
ネットの巨大掲示板は、一見、無名の大衆が自由に意見を交換できる、表現の自由が保証された場のように見えます。しかし実際は、匿名であるにもかかわらず、そのスレッドで支配的に意見を述べる人に対して、新参者が仁義を切るような媚びた挨拶をしたり、その発言が一方的に非難されて引っ込むなど、きわめて排他的な側面を見せることもあり、途中で参加する発言者には相当にストレスのかかる場所でもあるようです。
そしてまた、もうひとつ意識しておきたいことは、巨大掲示板こそ、言論を統制する最も有効な手段になるということです。たとえばもしも私が、映画『Vフォー・ヴェンデッタ』に登場するような独裁者だったとしたら、真っ先にネットの巨大掲示板を監視して、政敵の“V”に同調する書き込みをしている者たちを特定して圧力をかけるでしょう。また意図的な誹謗中傷(ヤラセ)を駆使して、自分に反対する者の意見を潰し、自分に賛成する声だけが盛り上がるように仕向けるでしょう。もちろん、毎日そんなことを続けたら底が割れて、誰もネットの情報に踊らされなくなるので、年に一回とか二回とか、ここという政策を実行するときに集中してやるわけです。
……以上は、SF作家としての私の創作的妄想でしたが……
表面的には匿名天国の掲示板でも、プロのネット管理者の側からは一方的に発言者を特定できるということ、これはネット掲示板の宿命的なリスクとして、心得ておきたいところです。
 
そんな不安も含めて、私たちは、今、あまりにも危険なほど、ネットに依存しているのかもしれません。
 
この国のインターネット利用人口は七千万人とか八千万人とか言われますが、それならば逆に、三千万人くらいの人たちはネットなしで生活しているわけです。そのことに不便を感じている人もいるでしょうが、とくに不便を感じてもいない人もいるでしょう。日々の人間関係を、ネット検索やメールを一切使うことなく成り立たせているわけで、多分ほとんどが実名で顔のわかる人たちとのつながりであると考えれば、そのような生活の方が、なにか確かな実感を伴っているのではないでしょうか。
 
 
●社会との関係の希薄化
 
そこで何が言いたいのかといいますと、人間関係をネットに依存するあまり、私たち個々人と社会との関係が、かえって希薄化してきたということです。
 
ネットを介して見る社会にいる人々は、みんな匿名の名無しさんばかり。回線の向こうにどんな顔の人が、どんなことを思って存在しているのか、知る手がかりはありません。気に入れば返答し、気に入らなければ攻撃し、関心がなければ無視するだけ、ということが許されるのです。そのことで相手が傷つこうが怒ろうが、こちらには知ったことではありません。回線でつながっている相手が、生きていようが死んでいようが……
 
そう、まるで、はるか高空を飛ぶ爆撃機から原子爆弾を落として、眼下の街の人間が何万人死のうとも、ただ見えるのは原子雲だけ。人を殺した実感などまるで感じられない……そんな、戦争の加害者と被害者にも似た、希薄な関係がネットのこちらとあちらの関係なのでしょう。
 
そんな私たちにとって、自分と社会との関係も、同様に希薄なものになってきているのでしょう。政治も経済も、この国の行く末も、世界でどんなことが起こっているのかも、ただネットの向こうの画像と文字の世界。そのリアリティはPCゲームとなんら変わりありません。
 
人と人、人と社会、人と世界の関係が、どんどん薄まってきている。
 
そんな私たちにとって、最もリアリティのある人間関係は、自分の周囲、半径5メートル程度の範囲で、実際に顔を突き合わせ、生の会話を交わす者同士くらいに、狭まってきています。
 
自分の、ごく親しい仲間の範囲には大変気を遣って、リアルのおつきあいをするけれど、それ以外の赤の他人は、まったく意識の外。生きていようが死んでいようが関係ない……
 
SFやファンタジーの若手の読者も、そして書き手すらも、すでにそんな感覚で世界を見ているのかもしれません。
 
思えば、『げんしけん』や、『涼宮ハルヒ』とか『N・H・Kへようこそ』は、その主人公を中心とした半径5メートル世界の物語であって、その作品世界の大人たちの社会との関係は、きれいなまでに拒絶されています。そのことの善し悪しは別として、ここ数年、SFやファンタジーの物語に描かれるのが、主人公とその友達を中心とした、ごく狭い世界に限られてきたのではないかと感じるのです。
 
涼宮ハルヒが異世界でどんな冒険をしようとも、それは大人たちの社会に、なんら変化をもたらすものではありません。これは『ハリー・ポッター』も同様で、ハリーたちが敵とどんなに激しい戦いを繰り広げようと、人間の大人たちの社会はなにひとつ変化しないのです。呪文ひとつで美味しい料理が山ほど出せるのですが、その力を魔法使いたちは、アフリカの子供たちの飢餓を救うために使うことはありません。
そのことを非難するとか批判するつもりは全くありません。ただ、ひとつの傾向として、SFやファンタジーの作品が、前世紀の作品に比べて、世界と社会が抱える大きな問題に関わらなくなってきたということは言えるでしょう。
 
 
●感動に、パソコンと携帯はいらない?
 
20年とか30年ほど昔のSFやファンタジーには、まだ世界の悲惨な戦争や飢餓問題などに対して、なんらかの関わりを持って立ち向かう生き方を描く作品があったように思います。鉄腕アトムとかファーストガンダムもそうですが、大人たちが引き起こした戦禍に対して、どうしようもない憤りをためながら、なんとかして世界に平和を取り戻そうと苦悶する青春像がありました。
金と権力、物欲と色欲にまみれた大人たちに対する、純真な若者たちのプロテストが、アニメに躍動していました。大人たちの邪悪を、世界の未来を担う子供たちが正そうとしていたのです。
 
今はその関係が逆転したかのようです。
ホリエモン世代以下の若者たちは、日々パソコンに向かってネットを操り、仮想世界のビジネスで勝ち組となることを夢見ています。堂々と「お金こそ一番大切なもの」「法律に反しなければ、なにをやってもいい」「傷つくのは弱いからさ」と語る人たちが、クールでかっこいいのであり、成功したヒルズ族の典型的なイメージとなっているかのようです。
 
ネットはビジネスの手段になるかもしれない、けれど、ネットの中に幸せがころがっているとは限らない。そのことは多分みんな、理屈としてはわかっているはずなのに、なぜかネットの中の世界で金鉱探しをしてしまうのが、悲しい人の性(さが)なのかもしれません。
『電車男』のお話は、まさに、誰でもネットで人生の幸せが拾えるかのような、ハッピーなイメージを与えてくれました。しかしあのお話が真実であるか否かはわかりません。それなりに脚色されていても不思議はないでしょう。とはいっても、だから作品としての価値が低いというつもりは全くありませんが……
 
さて、私が最も恐ろしいと思うのは、私自身はもちろんのこと、SFやファンタジーの書き手の方がネットにおぼれ、“2ちゃんねらー”化して、現実の社会を見なくなることです。今の社会と世界が直面している問題はなにか、正すべき誤りはないのか、そういったことを意識した上で、物語を書けるか……。これからの作家が試されることになる、大きな課題であると思います。
 
一方、揺れ戻しもきています。映画『三丁目の夕日』とかミリオンセラーの『東京タワー  オカンとボクと……』にみるような、レトロな人情ものに、人々は惹かれています。
しかしこれらの物語世界には、あるものが欠けています。
パソコンと携帯。
ネットもメールもPCゲームもないローテク世界の人情噺に、ネットやメールやPCゲームなしでは暮らせない現代の人々が感動している。ちょっと考えると、不思議なことですね。
さらに付け加えれば、『ハリー・ポッター』でも、舞台が現代でありながら、パソコンや携帯が(私の知る範囲では)見かけません。もしあったとしても、ごく限定的な登場の仕方をしているのでしょう。魔法が使えるのだからいらないと言えばそれまででしょうが、「携帯を持っていれば助けが呼べるのに」と思わせるシーンもいくつかあるように思えます。あれほどの超ヒット作であるにもかかわらず、奇妙ながら、この作品の最もおもしろい部分には、現代の人々の必需品でもあるパソコンや携帯が関与していないのです。
 
ネット世界にひたり、社会との関係の希薄化にうすうす不安を感じつつもどうにもできず、かえってネットなき世界の物語に感動を求めてしまう……
現代人の、どこか自己矛盾した心理も感じられる昨今です。
 
そんなことを思いながら、新作に取り組んでいます。
 
よい年になりますように。
 
 
 
【追伸】20070107
 
●そして、“ネット徘徊老人”
 
1月6日の朝日新聞に、「ネット中毒 広がる中国」という記事がありました。急速にネット普及が進む中国で、ネットカフェに入り浸ってオンラインゲームにはまり込む少年(男の子が多い)が増加。30時間40時間と連続してゲームを続けたあげくに自殺したり、ネットカフェで遊ぶ金ほしさに誘拐殺人といった犯罪に走る子供たちの存在がレポートされていました。
 
日本ではパソコンの普及が中国よりも早かっただけに、大人たちの世代から、同様の現象があると考えてよいでしょう。おそらくオンラインゲームよりも、『2ちゃんねる』や『ミクシィ』、また自分で開設したブログでのアフィリエイトにのめり込んだり、携帯メールをやりとりし続けなくては精神的に不安定になるといったことです。
 
私たちの国では、ネット依存症は世代を問わない広範囲な病理的現象となりつつあるようです。ネットはすでに、若者だけの世界ではありません。40代50代の、相当にいい歳をした高齢の大人であったとしても、中にはネット掲示板に匿名で、あることないことを悪ふざけで書き込み、“狩り”だ“祭り”だと騒いで喜ぶ人もいるのが現実だと考えてよいでしょう。
 
巨大ネット掲示板で後を断たない、誹謗中傷事件。他人の名誉を毀損し、侮辱を浴びせてなおも良心の呵責を感じない人々。その根本的な問題は、心ない書き込みによって攻められる被害者だけが実名で特定され、そのプライバシーが晒しものにされる一方で、攻める側の人々は最後まで匿名であり、それゆえ責任を追及されにくいという卑劣さにあります。
ネット掲示板とは、攻める側にのみ一方的に有利なシステムであり、その体質は学校や会社でのいじめの構図を含んでいると言えるでしょう。
善し悪しを議論する前に、それも現実であることを踏まえなくてはなりません。
このように無責任でインモラルな情報空間に、これからは、60代以上の老人たちが、ありあまるカネと時間を投じて参入してまいります。
 
そうです。いよいよ団塊の世代が60代に入るこの国がこれから直面するのは、ネット中毒の若者たちばかりでなく、それこそ年金生活の気楽さ、誰はばかることなく大手を振って、何百時間でもネットにハマりまくれる“ネット徘徊老人”なのです。
 
半分は冗談ですが、近未来の日本では……
 
自宅や老人ホームのパソコンで、一人寂しく世間とつながり、他人への誹謗中傷おかまいなしに、やりたい放題無責任な書き込みを繰り返し、(なにぶん歳なので、もう恐いものがない。ポルノサイトに投稿して警察沙汰になったとしても、アルツハイマーで心神喪失ってことにして逃げを図る)世間に大きな迷惑をかけまくる“電脳意地悪爺さん婆さん”も増殖すると思われます。
 
そんな“ネット徘徊老人”の逝く末は、“ネットにつながったままのご臨終”ということになるでしょう。バーチャル空間に自分のアバターを、亡霊のように残してこの世を去ること。本人が亡くなったことも知らず、疑似人格を与えられたアバターたちは、残されたホームページやブログの中で、あるいはオンラインゲームの空間でゾンビのごとく生き続け、相変わらず世間に迷惑をかけ続けるかもしれません。困ったことに、アバターを消去させたくても、その本人が亡くなっているのでは……
 
匿名であるどころか、生死すら定かでない、そんな幽霊めいたキャラクターたちが徘徊するネット空間。それはいずれ、今後20年30年先を考えると、ネット空間にインモラルな老人たちがあふれ、やがてインモラルな亡霊の帝国が出現していく結果になると思われます。
アニメで悪霊を退治する結界師たちの活躍の場は、むしろ電脳空間の中ということになりそうですね。いやはや、まったく……
 
 
 


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