Essay
日々の雑文


 32   20070308★アニメ解題『少女革命ウテナ』解説
更新日時:
2007/11/04 

20070303【アニメ解題】
 
 
『少女革命ウテナ』解説
私の最終黙示録
 
 
 
 
本文は、あなたがTV版『少女革命ウテナ』の全話をすでにご覧になったことを前提に書いています。必ず、全話をご覧になってからお読み下さい。
 
 
 
●主人公なきラストシーンの感動
 
過ぎ去りし二十世紀。
その世紀末の数年間は、ニッポンが世界に誇るジャパニメーションの文化的基盤が完成された時期と言っていいでしょう。
『新世紀エヴァンゲリオン』や『カウボーイビバップ』をはじめ、時代を超えて語り継がれるべきハイレベルな傑作が、百花繚乱のごとく次から次へとオンエアされました。アニメは子供だけが観るものではなく、30代や40代のいい歳した大人たちも夢中になるメジャー文化へと、変貌を遂げたのです。
 
その中でひときわ輝くのが、97年の4月から12月まで全39話が放映された『少女革命ウテナ』です。これぞ傑作中の傑作。おそらく20世紀のTVアニメ作品としては、ストーリーといい、そのシュールでアーティスティックな演出といい、また絵的にも音楽的にも群を抜く、まさに最高傑作といえましょう。
 
私はその第一話も最終話も、遅まきながら今世紀に入ってからDVDで観たのですが、その衝撃はまったくもって、青天の霹靂でした。
 
なんのこっちゃ? さっぱりわからない。
最初は、それが正直な感想でした。
 
ウテナや生徒会メンバーの、タカラヅカ的装飾過剰なコスチューム。あの奇矯さは何なのだろう?
黙して“薔薇の花嫁”を演じ続ける姫宮アンシーの正体は?
アンシーを奪い合う、常軌を逸した決闘の掟。その決闘資格者であるデュエリストを示す指輪“薔薇の刻印”の由来や、決闘広場の上空に出現する逆さまのお城に“永遠がある”という伝説には、いかなる意味があるのか?
それらすべてを仕切っているらしい“世界の果て”なる人物とは?
そして、作品タイトルにもなっているキーワード、“世界を革命する”って、どういうことなのだろう?
 
毎回、ストーリーの幕間に登場する影絵劇団カシラの不条理コントも加わって、『ウテナ』の世界は謎だらけ。もう謎でない部分を探すことに苦労するほど、不可解の嵐が吹きまくります。アニメ芸術におけるシュールレアリスム、ここに極まれりといった感すらありますね。
 
しかも、謎の内幕をきちんと説明してくれる人がいないまま、39回もの長丁場なストーリーを突っ走り、謎は謎としてそのままに、最終話の驚愕のラストシーンへとなだれ込んでゆくのです。
 
全編を通じて最も大きな謎こそ、最終話のラストシーンでしょう。
まさか、主人公のウテナがああも無惨に敗北し、舞台を去ってしまうとは……。肝心の主人公が所在不明のまま、何がどうなり、どういう事情でアンシーが決意し、旅立って行くことになったのか、そのあたりのいきさつは、だれも説明してくれません。
 
最後までてんこ盛りになった謎のすべては、作者がきちんとコメントすることなく、思いっきり気前よく、そのままどーんと、視聴者の推理と想像に委ねられてしまったのです。
 
 
●今こそ開く、謎の扉
 
『ウテナ』は、この4月で放映開始後ちょうど十年になりますが、作品のテーマといい表現といい、その斬新さはなにひとつ失われていないでしょう。それはきっと、アニメ作品としての品質や技術のすばらしさだけでなく、私たちの前に『ウテナ』が残してくれた大きな“謎”の新鮮さゆえなのです。
 
その謎はつまるところ、この一言に尽きます。
最終話の、この強烈な感動は何なのだ?
 
アンシーが、訳すれば『薔薇と解放』というタイトルの曲をバックに、軽やかに学園の門から踏み出し、歩みゆくエンディングに至ったとき、私の全身を、身も震えるほどの感動がかけめぐっていったのを覚えています。
 
それが、ずっと気になっていました。
全身をぞくっとさせるほどの、心ゆさぶる感動。
それは、最終話だけで始まって終わる感動ではなく、第1話からずっと保ち続けられてきた作品のテーマが、ついにここで、とびきりの美しい解決をみて、思わず喝采を叫びたくなるような、このうえない上出来の終幕に出会ったことによる感動だったと思います。
 
しかし、感動の大きさはわかるのですが、その感動の理由を順序立ててうまく説明できないのです。そのまま月日が過ぎてしまいました。
 
しかし最近、『ウテナ』をざっと見なおしてみて、驚きました。
 
そうか、そういうことだったんだ……と。
 
ようやく、お話の全体的な構造が呑み込めました。そして別な意味で、改めて感動しました。一見して、作品を作る側の勝手な思い込みや場当たり的な展開や一人よがりの発想に舞い上がっているかのようで、じつは、『ウテナ』の作者ビーパパスの方々は、論理的に筋道の通った組み立てで、このお話を細部までぬかりなく構築しておられたのだということです。
 
『少女革命ウテナ』は、単なる思いつきのシュールレアリスム・アニメではありません。お話の表面からは見えない骨格の部分に、じつに緻密で論理的な構造を内包しているのです。それが39話分、きちんと積み上げられてきたからこそ、最終話に至って、他の作品ではちょっと不可能なほど、すばらしい感動をもたらしてくれるのです。
 
『ウテナ』に関する本は世紀末に何冊も出ましたので、その中に、私の知らないうちに解答が書かれているかもしれません。その点は不勉強をお許し下さい。ともあれ今は、TV放映された作品の中に語られていることを材料に、私なりに最終的な解答を導いてみたいと思います。
 
(私の手元には、98年3月に青林工芸舎から出た『薔薇の黙示録』という解説書があります。放映終了直後に出た本にしては、かなり積極的なネタバレ・アプローチがなされています。これも参考になるでしょう)
 
さてしかし、本題に入る前に、ひとつお断わりをしておきます。
『ウテナ』はアニメであると同時に、演劇でもあるということです。
演劇に特有の演出が随所にみられます。たとえば、生徒会メンバーの奇抜なコスチューム、回転する薔薇の図案や、突然に出現する指差しマーク、生徒会室のテラスにおける野球のシーンや無数の風船といった超現実な場面、影絵少女によるコント、そして極め付けは、斜塔と螺旋階段によって空中に屹立する決闘広場と、上空に倒立する中世のお城……
いずれも、この作品がアニメという架空世界のお話とはいえ、やはり、現実に存在しているという設定では、明らかにつじつまの合わないナンセンスな現象です。そういったものが、ひょいひょいとお手軽に登場してくるのです。
 
しかしそれらはおそらく、歌舞伎役者のデフォルメされた化粧や衣裳、オーバーアクションの演技のようなもので、いわゆる小演劇の舞台では、ごくあたりまえに挿入される演出技法や舞台装置と同じものだと、とらえてもよいでしょう。
それは「現実にこのようなものがあるよ」といいたいのではなくて、登場人物が心の中で考えたりイメージしていることを、演劇ならではの手法で可視化して見せたものではないでしょうか。
 
いわば“心象風景の可視化”です。
奇抜なコスチュームは、実際にそんなコスプレをしてますよと言いたいのではなくて、生徒会メンバーたちの強烈な個性や、一般生徒から優越した立場を、そのような衣裳で“視覚的に表現した”と解釈するわけです。決闘広場も、実際にそのような建築物がありますよといいたいのではなく、現実から隔絶された一種不思議な場所で戦ってますよということを、絵にして表現したらああなったと解釈してもよいのではないでしょうか。
 
『ウテナ』には多くの謎がありますが、演劇的な“心象風景の可視化”の手法と解釈すべきものについては、「なぜ、どうして、あんなものが?」と細かな理由や原因を詮索するのは控えておくことにします。この原稿では、作品中で説明されていない、お話の構造そのものに絞って解説を試みます。
 
 
●世界を革命するためには……
 
さて、『少女革命ウテナ』は何をテーマとするお話なのか。
一言でまとめるなら、いったいどういうことなのでしょうか?
作者の視点から言うと“世界を革命する物語”です。
しかし、それだけでは、よくわかりませんね。
“世界を革命する”とは、具体的にどういうことなのでしょう。
 
その手がかりは、作品中に、明確に言及されています。
生徒会のテラスへエレベータが昇るシーンで繰り返される、訓示的なセリフ。
 
「世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために」
 
ということは……
世界を革命する前段のプロセスとして、まず“殻を破る”行為が不可欠であるということです。
 
『ウテナ』のお話は、“世界を革命する力”を求めて闘う物語でもありました。決闘でアンシーの胸からディオスの剣を引き抜いてかかげるウテナは、「世界を革命する力を!」と叫びます。
 
決闘で勝利することは、“世界を革命する力”に近付くことを意味しており、その闘いは全編を通じて、延々と繰り返されます。第38話の、暁生とウテナの闘い(最後の決闘)に至るまで……
 
そしておそらく、最後の決闘の勝者こそ、“世界を革命する力”に至るために、“殻を破る”ことができたであろうと思われます。
 
そうです。そこが問題です。『少女革命ウテナ』というこの作品が本当の意味で“完結”するには、登場人物のだれか、おそらく最後の決闘の勝者が、最終話で“殻を破る”ことになったはずなのです。
 
それは、誰でしょうか?
 
最終話の、あの感動のラストシーンが、このお話の見事な完結を物語ってくれます。『薔薇と解放』の歌とともに、軽やかな足取りで、学園の門から新しい世界へと歩みだすひとりの少女。
 
この一瞬に、ぞくっとするほどの感動に貫かれるのは、私だけではありますまい。
ああ、ついに、最後に“殻を破った”のは、アンシーだったのだ……と。
 
アンシーが“殻を破った”ことは、この直前に暁生に対して「この居心地のいい柩の中で、いつまでも王子様ごっこをしていてください。でも私は行かなきゃ」と告げていることからも明らかです。それまでの物語の中で、“殻”と“柩”は同じ意味合いで使われてきました。“居心地のいい柩から出ていく”ことは、すなわち“殻を破る”ことであり、“世界を革命する”ことにつながるのです。
 
ならばアンシーは、“世界を革命する”ことにも成功したのでしょうか?
 
でも、どうして?
ちょっと、おかしいですね。
なぜなら、“殻を破り”、“世界を革命する”ことは、決闘に勝った“最後の勝利者”でなくてはできないと考えられるからです。
 
アンシーは、はたして、決闘の勝者なのでしょうか?
 
 
●最後の勝利者とは……
 
それでは、最後の決闘は何だったのでしょうか。
暁生との最後の決闘では、ウテナはボロボロに敗けて学園を去ったのではなかったのか?
そんなウテナに、アンシーを救う力など、あるはずがなかったのではないか。
救われることなく、薔薇の柩とともに落下していったアンシーが、決闘の最後の勝者になったはずがない……ように見えます。
 
しかも、アンシーは、最初からデュエリストではありません。
これまでの決闘のルールや形式の面から考えると、アンシーは“殻を破る”ことのできる立場にはない、不適格者なのです。
 
だから順当に考えると、アンシーは最後の決闘に勝つどころか、無力なまま暁生の支配下に戻ったはずでして、暁生を排除して自らの力で学園を出ていくことなど、できないはずなのです。
 
なのに、まるで決闘の勝利者であるかのように、堂々と“殻を破り”歩み出すアンシー。
まっとうに考えると、理屈が合わないように見えます。
 
しかし、第38話と最終話の決闘シーンを注意して観ると……
おそるべし、なにやら理屈が合ってくるのです。
 
まず、ウテナは暁生に敗けたのか? という疑問です。
結論から言うと、“全然、敗けていない”のですね。
 
第38話の後半、二人は激しく刃を交わしています。ウテナが持つ“ディオスの剣”は、ウテナ自身の胸からアンシーに抜き出してもらった、ウテナ自身の“心の剣”でもあります。
対する暁生が振るう剣は、アンシーの胸から抜き出した、アンシーの心の剣なのです。暁生自身の心の剣ではありません。
 
決闘が始まり、剣劇たけなわの最中、ウテナの「王子様になるってことだよ!」の決意表明で天上の城が崩れはじめ、暁生はうろたえます。すかさずそこへ斬り込むウテナ。暁生は防戦一方となってしまい、窮地に陥ります。
 
そこで暁生は、卑怯にも、アンシーをウテナの前へ突き飛ばします。その寸前に自分の持つ剣をアンシーに託して……
そしてウテナにかばわれる形になったアンシーは、暁生に味方して、ウテナを背後からグサリ!
ウテナは決定的なダメージを受けて、くずおれます。
すぐさま、ウテナを刺した自分の剣を投げ捨てるアンシー。
暁生はアンシーに歩み寄り、ウテナの剣を自分に渡すよう命じます。
アンシーはためらいつつも、暁生にウテナの剣を渡します。
 
この状況から言えることは、
@ ウテナを倒したのは暁生ではなく、アンシーが自分自身の剣を使って倒したのだ、ということ。そして……
A 暁生がアンシーから手にしたのは、倒されたウテナの剣であって、ウテナを倒したアンシーの剣ではなかった。ということです。
 
そう、ウテナを倒したのは、厳密には、暁生ではなくアンシーなのです。
では、この最後の決闘の、最強の勝利者は……アンシー?
そうすると、ウテナを敗って“世界を革命する力”が宿るに至った剣は……
アンシーが投げ捨てた、アンシー自身の心の剣ということになるのです。
 
だから本当は、暁生は『薔薇の門』を開けるために、勝者であるアンシーの剣を使うべきだったのでしょう。だが、何を間違えたのか、敗者であるウテナの剣に執着してしまいました。心ならずもアンシーに倒されてしまった、敗者であるウテナの剣では、薔薇の門は開けられなくて当然だったのでしょう。
 
さて、暁生は自分を「デュエリストではない」と明言し、実際にデュエリストの証である“薔薇の刻印”の指輪をはめていません。
しかしながら、なぜか旧来の決闘のルールを守っているのです。
ウテナと激しい刃の応酬をしているとき、暁生は自分の胸に青みがかった薔薇の花をつけているのですから。
 
決闘の基本ルールはこうでした。「先に薔薇を散らされた方が敗け」
 
と、いうことは……。
アンシーに刺されて倒れ伏したウテナを見下ろしたとき、暁生はこの決闘に勝った証として、ウテナの胸の薔薇を散らさなくてはならなかったはずです。
しかし、なぜか暁生は、ウテナの胸の薔薇を散らしはしないのです。うっかり、忘れてしまったのでしょうか……。そのため、ウテナはその後もずっと、胸に白い薔薇をつけたままです。
 
そうです。ここで決闘のルール上、これまでなかったイレギュラーな状況が生じたのです。アンシーの剣に貫かれ、自分の剣を暁生に奪われたウテナなのですが……
残されたままなのです。ウテナの胸に、白い薔薇が。
つまり、ウテナは、正式には“まだ敗けてはいない”のです。
 
かたや、暁生は……
ウテナの剣で薔薇の門を開けることに失敗してから、床に寝そべってトロピカルジュースを飲むのですが、そのときの、彼の胸に注目して下さい。
暁生の胸からは、薔薇の花が消え失せているのです。
 
ウテナに対する勝利を確信したので、戦意をなくして、自分から外して捨ててしまったのでしょうか? しかし一方、ウテナの胸にはこのときも薔薇の花が残っています。
 
ウテナは敗けていない。まだ戦闘中なのです。
 
振り返ってみましょう。第29話の決闘で、有栖川樹璃がみずから自分の胸の薔薇を捨てて、敗北を認めたことを。その条件を当てはめて、同じことが起こったと考えるならば、呑気にトロピカルジュースを飲んでいるとき、暁生は胸の薔薇を放棄して、自分から敗北していたことになるのです。
 
そういうことです……
トロピカルジュースの時点で、暁生はルール上、決闘に敗けたのでした。
うかつなり、暁生。
ならば、ウテナが勝ったのでしょうか。
残念ながら、そう断定することはできませんね。ウテナはまだ胸に薔薇をつけているので、決闘に“敗けてはいない”のですが、先に、アンシーの剣がウテナを貫いてしまったのも事実ですから。
ならば……
最後の決闘の勝利者は、アンシー?
 
 
●そして、終わらない決闘
 
とはいえ、アンシーは厳密にいうとデュエリストではありません。
“薔薇の刻印”の指輪をはめていないからです。
出場資格のない者が試合に巻き込まれて勝ってしまったようなもので、決闘の正式の勝利者とするには、いささか無理があります。
 
しかし……
このあとのシーンへ目をやってみましょう。
薔薇の柩に閉じこめられていた、“本当のアンシー”に、柩の蓋を開けたウテナが手を差し伸べる瞬間です。
「姫宮……やっと逢えた……」と。
アンシーに差し伸べられたウテナの手は……指輪をした、左手でした。
 
さて、第37話で、塔の上からアンシーが身投げしようとしたとき、彼女をつかんで引き戻したウテナの腕は……思い返せば、右手でしたね。
なのに今度は、右手でなく、“薔薇の刻印”の指輪をした左手を差し伸べているのです。まるで、指輪をアンシーに差し出すかのように。
 
そしてアンシーは、刹那、ウテナの左手を握ります。
ようやくつながった二人の手は。無情にもすぐに離れてしまうのですが、この一瞬、アンシーの手はウテナの指輪に触れています。
このとき、まさに一瞬のことですが、アンシーは指輪に触れて、デュエリストの資格を得たとは考えられないでしょうか。
たとえ一瞬の間でも、アンシーは決闘の有資格者になったのだと。
 
(99年の劇場映画版では、このことを意識したのでしょうか。アンシーがウテナから指輪を受け取り、その指輪が“外の世界”へ脱出する鍵に変わる……という展開になっています)
 
ならば、アンシーこそ、正式な決闘の勝利者……
と、いきたいところですが、アンシーもまた、ウテナの胸の薔薇を散らすことはしませんでした。
それらのことを整理すると、こうなります。
 
アンシーは、それまで事実上無敵だったウテナを破りました。
しかし、アンシーには正式なデュエリストの資格がありません。
ところが、ウテナが差し出した左手の指輪に触れたことで、瞬間的にデュエリストの資格を得ました。決闘の、最終勝利者の一歩手前にまで至ったのです。
しかし、アンシーはウテナの胸の薔薇を散らしてはいません。
闘いに勝ったものの、ウテナを完全に負かしてはいないのです。
正式な勝利には、まだ到達してはいないと考えられるでしょう。
 
しかし、それでいいのかもしれません。
なぜなら、ウテナには最初から、アンシーと勝負して勝とうとする意志は、まったくないのですから。
むしろ逆に、アンシーのために、自分のすべてを投げ出しているのです。
指輪をはめた手を、差し伸べることによって……
おそらくは、勝利者の資格をアンシーに譲ったとも考えられるでしょう。
 
そうすると、正しい結論はこうなります。
「最後の決闘では、まだ正式な勝利者が決まっていない」ということです。
アンシーが最終勝利者となる寸前にまで至りました。しかし、そこで……
決闘は中断され、まだ終わってはいないのです。
 
このように複雑で中途半端な結果になったのは、なぜでしょう。
おそらく、これまでの決闘にはなかった複雑な人間関係によるものです。
この決闘は、形式的には、暁生とウテナの闘いでした。
しかし本質的には、アンシーとウテナの闘いだったのです。
 
より正確に言うならば、“暁生に支配されたアンシー”と“アンシーを救いたいと願うウテナ”が互いの心の和解を賭けた闘いでもあったということです。
 
最後の決闘の、完全な勝者は、まだ決まっていません。
しかし、その寸前にまで至ったのは、アンシー。
“世界を革命する力”まで手に入れたかどうかはわかりませんが、少なくとも、その直前の段階である“殻を破る”ことができるようになったのだと、私は考えたいのです。
アンシーのために、身も心も投げ出してくれた、ウテナのおかげによって……
 
(物語中ではアンシーとウテナは別人として描かれていますが、演劇的な演出として、「形式的には別人となっているけれど、じつは一人の少女の心の対立する両面を、二人の少女に仮託して描いた」という解釈も成立します。各話のタイトルオープニングやエンディングで、アンシーとウテナがまるで表裏一体の双子のように配置され、甲冑をまとってともに闘うさまも、絵的にはこの解釈を物語っているでしょう。ただ私は、あくまで作品の筋立てとしては、「まるで鏡のように対立した心を持った二人の少女が、真の友として本当に心を通わすまでの物語」として観た方が劇的であると思います。アンシーとウテナが一人の少女だったという印象は、すべてを見終えたあとで、視聴者の心に残る、読後感のようなイメージでいいのではないでしょうか。おそらくそれが作者の意図にも沿うことになるでしょう)
 
 
さてそれでは、デュエリストたちがめざした、“殻を破る”とは、具体的にどういうことだったのでしょう。
私は、こう言い換えたいと思います。
“閉鎖社会からの脱出”なのだと。
 
最終話のエンディングで、アンシーは鳳学園という閉鎖社会から、足取りも軽やかに、颯爽と脱出していくのです。心から慕うウテナの後を追って……
 
 
●暁生の支配、そして崩壊の物語
 
『少女革命ウテナ』全39話は、主人公のウテナにとっては、“薔薇の花嫁”の掟に縛られたアンシーを解放するための闘いであり、最後には友として信じたアンシーに裏切られ、身も心もずたずたに引き裂かれ、ボロボロに疲れ果てて、失意のうちに学園を去るという、救いのない悲惨な物語でした。
 
まことに、凄まじい結末です。
れっきとした主人公を、ここまでの絶望に追いやり、救うことなくお話を終わるアニメ作品は、滅多にお目にかかれません。なにしろ、救いがないどころが、学友たちからも「ま、どうでもいいけどね」と忘れ去られてしまうのです。
それだけに、最終話のエンディングで、ただひとりウテナへの思慕の心を残していたアンシーが旅立つ姿は、胸にせまるものがあります。
まさに感動のフィナーレです。
 
さてしかし、それだけで終わってしまったら、このお話は結局どういう話だったのか、わからないままですね。
 
そこで、視点を変えてみましょう。
『少女革命ウテナ』全39話の主人公は、ウテナでなく、暁生とアンシーだと考えてみるのです。
物語の黒幕であり、前半はほとんど姿を見せなかった、鳳暁生。
彼にとって、このお話は、どんな物語だったのでしょうか?
 
そうです、“学園の支配と、その崩壊の物語”になるのです。
 
鳳暁生を中心に、もういちど『少女革命ウテナ』全39話を、振り返ってみましょう。すると、見えてくるのです。
この物語の、本当の姿が……
 
 
●『生徒会編』……暁生の巧妙な支配システムと、ウテナの闖入
 
暁生が、どのような経緯で理事長代行となって鳳学園の実質的な支配者になったのか、その詳細は明らかにされてはいません。
ただ、暁生は理事長の娘の香苗と婚約関係にあり、それが彼の権力の基盤になっていることはわかります。
学園に君臨する暁生。しかしその権力は、あくまで彼自身に備わったものではなく、香苗と婚約していることによる、借り物の権力なのです。
これが、暁生の支配力の不安定要素となっています。
そうです。暁生はまだ“永遠”の権力を手に入れてはいないのです。
 
ならば現在の、暁生の望みは、はっきりしています。
他人に権力をおびやかされることなく、学園を(表面的には)平和に支配し、その支配を続けること。いつまでも、“永遠”に……
 
そのためには、どうすればいいのでしょうか。
昔から、独裁者と呼ばれる権力者は、たいてい同じことを心がけてきました。
 
この世界のナンバー・ワンとして君臨する自分に歯向かうかもしれない、有能なナンバー・ツーを作らないことです。
 
権力の基盤を香苗に依存する以上、暁生がそのようなことを考えても無理からぬことでしょう。そこで学園を見回すと、今はともかく、将来、暁生に逆らったり、歯向かうかもしれない人物を何人か見つけることができたのです。
それは、有能で危険な学生たちです。
 
たとえば桐生冬芽。狡猾なことでは暁生に劣らぬ策士ですね。
有栖川樹璃も、女性ながら剣の達人、人望も厚く、油断できません。
薫幹も、頭脳は天才的。西園寺はどうかといえば、あのように自分勝手で粗暴な剣士を放置しておくと、羊の群れに放った狼みたいなものです。学園の秩序を一人で崩壊させかねません。
 
今はともかく、二年、三年して大学部へ進まれたら、かれらは学園に絶大な影響力を行使して、暁生の言うことをきかなくなる可能性がありますね。万が一でも、野心を抱いて、暁生に対して下剋上など仕掛けられたらたいへんです。
そんな、反逆の心が地面に芽吹く前に、うまく摘み取ってしまう方法はないものか……
 
暁生は人知れず、知恵を絞ったに違いありません。
そして、編み出したのです。
“薔薇の花嫁”をめぐる決闘の掟を。
 
将来、暁生の支配力をおびやかしかねない有能な輩は、生徒会メンバーとして、学園のエリート階級の一員に迎え入れる。
普通の学生をはるかに超越して、生徒会室のテラスに立つ特権を得たかれらは、そのかわり、“世界の果て”なる人物から“薔薇の刻印”の指輪を与えられてデュエリストとなり、“薔薇の花嫁”アンシーを決闘で奪い合うのである。
 
そうすることで、暁生の立場は安泰になります。
なんとなれば、アンシーという少女をまるで優勝カップのように奪い合うことで、生徒会メンバーは互いに闘うことに熱中し、黒幕の支配者である暁生と闘う気は起こさなくなるからです。
また、互いに決闘に勝ったり負けたりで、アンシーとエンゲージする者が交替することによって、特定のだれか一人がチャンピオンとして君臨し、権力をたくわえる危険を避けることもできます。
 
しかも、いくら決闘に勝っても、得られる地位は“アンシーとのエンゲージ”にとどまります。アンシーは暁生に支配された妹なのですから、何度決闘に勝ったところで、その立場は暁生の妹であるアンシーと同等。すなわち、半永久的に暁生のナンバー・ツー以下であり、それ以上ではなくなるのです。万が一、暁生に対して闘いを挑もうと考えたところで、そんな野心を抱く前に、次なる決闘の挑戦者が現れることになり、そちらと闘わなくてはならなくなるのですから。
 
そうです。暁生は自分を心から愛してくれる妹アンシーを生贄に差し出すことによって、学園を永続的に支配するシステムを構築してしまったのです。
 
それが、“薔薇の刻印”の掟でした。
 
おそらく、暁生の真意にうすうす気付いていたのは冬芽くらいで、他のメンバーはみんな、アンシーの妖しい魅力に惹かれるあまり、暁生に操られていることも知らず、日々の決闘に没頭していったことと思われます。
 
第1話から第12話までの『生徒会編』には、決闘ゲームに翻弄される生徒会メンバーの愛と友情と欺瞞と、憎しみと悔悟がちりばめられているのです。
 
哀れなのはアンシーでした。支配者が大衆に投げ与える玩具となって、ひたすら自分を殺し、一体の花嫁人形として、決闘の勝者の所有物になるしかなかったのです。それは、生きながら柩に閉じこめられるに等しい状態でした。
 
さらに恐ろしいことに、学園のエリートたちの“花嫁”となる自分が、生徒会メンバーたちに憧れる一般生徒からの、慢性的な嫉妬と憎悪の対象となってしまったことです。ありていに言えば、格好のいじめの標的となったのです。無口で反抗しないアンシーは、いじめの好餌そのものでした。
 
物語の中でしばしば出てくる、無数の剣によって串刺しにされるアンシーの影絵は、ごく普通の生徒たち(大衆)の悪意をただ黙して一身に受けるアンシーの心の悲鳴を表した、心象表現とみてよいでしょう。
 
そうやって、妹アンシーを犠牲にすることで、学園を影から支配した暁生でしたが、そこに、想定外の椿事が発生します。
 
ウテナの闖入です。
 
最初は偶然に決闘に巻き込まれ、たまたまアンシーとエンゲージしてしまったウテナでしたが、アンシーに好意をいだき、アンシーを“薔薇の花嫁”のくびきから解放してあげようと決意したとき、暁生が築き上げた完璧な学園支配のシステムに狂いが生じ始めます。
 
ウテナは純粋で、その気高さゆえに強かったのです。決闘メンバーとしては生徒会最強だった冬芽をついに下したとき、暁生は刮目してウテナを注視せざるをえなくなります。
第1話から第12話までの『生徒会編』は、偶然のなりゆきで決闘に参加したウテナが生徒会メンバーを殲滅し、暁生の学園支配システムを根底から揺るがすまでの物語だったのです。
 
 
●『黒薔薇編』……おそるべし、アンシーの策謀
 
さて無茶苦茶な自我流剣法で生徒会メンバーをことごとく打ち破ったウテナですが、だからといってすべての黒幕がアンシーの兄であるとはつゆ知らず、平和な日々を送ります。
しかしそれもつかのま、『黒薔薇会』なる新たな敵が現れて……と物語は展開していきます。
 
しかしここで、待った。
なぜ、黒薔薇会なるものが現れたのでしょうか。
最初は、自主的にウテナの敵として立ちふさがったかにみえた黒薔薇会ですが、実のところは、その主宰者である御影草時にしてからが、暁生とアンシーに体よく操られていたことがわかってきます。
 
毎回、黒薔薇の刻印の指輪をはめてウテナに挑戦する決闘者たちは、暁生とアンシーの武器として、ウテナに差し向けられた刺客だったわけです。
 
なぜでしょうか。
これまで決闘のシステムで学園を支配してきた暁生ですが、ウテナの登場で、意外や困った事態に直面してしまいました。
互いに、永遠に決闘を繰り返してくれるはずの生徒会メンバーが全員、ウテナに屈してしまったことです。
さすがに暁生は驚いたことでしょう。ウテナの挙動に注目します。自らウテナの前に現れて、ウテナの思いを確認します。そして知ることになります。
 
ウテナは、暁生に歯向かうような野心は持っていない。しかし、アンシーの解放を願っている。みずから王子さまとなることで、アンシーを守り、薔薇の花嫁から脱却させるつもりだ……
 
このことを知って、暁生は内心、不安にならざるをえません。
アンシーの解放は、すなわち暁生が構築してきた学園支配システムの、根本からの破綻を意味するのですから。
 
しかもウテナには、生徒会メンバーのような権力への欲望はありません。この場合の“権力”とは、“他人を支配したい”という欲望です。生徒会メンバーも、後から登場する決闘者たちも、なんらかの形で、誰かを「支配したい」という欲望があり、それを利用されて、暁生やアンシーに操られてしまいました。
しかし“他人を支配する”欲望を知らないウテナには、暁生の戦術は根本的に通用しません。欲がないので、買収のしようがなく、罠も仕掛けにくいのです。
欲望(支配欲)のない革命家ほど、世界の独裁者にとって困った存在はありませんね。独裁者として君臨する暁生にとって、ウテナは最強のテロリストになってしまったのです。
 
これはまずい。
そこで暁生は一件をたくらみます。
新たなる敵を選び出し、ウテナにぶつけるのだと。
人選に迷いはありませんでした。
御影草時。大学部に暗然たる勢力をのばしている『御影ゼミ』の主宰者。天才にして政治力も備えた御影はまた、暁生が日頃からマークしている“消滅させるべき敵”の一人だったに違いありません。
 
御影が、じつは時の止まった根室教授自身だったのか、それとも御影草時という超ド級の天才高校生に根室教授の記憶が宿ったのか、いずれか判然とはしませんが……。
なにはともあれ、おそらく御影は、本来なら生徒会メンバーに入るべきところを、それ以上のプライドをもって対抗し、生徒会の影響を排除すらできるゼミの主宰者として君臨していたのでしょう。あろうことか、“永遠”の研究にまで手を染める始末。このままだと理事長代行である暁生の権力をおびやかす存在になる可能性が十分にあったのです。
 
そこで、暁生は“世界の果て”として、御影を操ります。
アンシーを馬宮に変装させて御影を篭絡し、ウテナに挑戦させたのです。
ねらいは当たりました。
御影が作り出した黒薔薇の決闘者たちはウテナに挑みかかり……
そして、ことごとく破れ去りました。
最後に、御影は総力をあげてウテナに闘いを挑み……
自滅しました。
 
このあたり、さすがに暁生の狡猾さが冴えていますね。
ウテナを破ることはできなくても、そのかわり、暁生の敵になるかもしれなかった御影を葬ることができたのですから。
 
そしてもうひとつ、ぞっとするほど恐ろしいのは……
アンシーです。
御影にそそのかされてウテナに挑んだ決闘少女たちの中で、少なくとも、香苗と梢、若葉の三人は、アンシーに対して激しい嫉妬や不快感をもって、決闘にいざなわれた人たちでした。いわば、アンシーにとって、敵となる人物です。
 
そうです。なんと恐ろしいことに、兄の計画に協力しながら、アンシーはウテナの力を利用して、自分に敵対する少女たちを撲滅してしまったのです。
 
第14話から第23話までの『黒薔薇編』は、裏を返せば、暁生とアンシーが、ウテナの力を利用して、自分たちの敵を予防的に退治させるという、驚くべき謀略の物語でもあったのです。
 
さてこうして、ウテナに決闘を挑んだ者はみな蹴散らされてしまいました。
暁生にとってこの時点での誤算は、ウテナの意志がまったく変化しなかったことです。
アンシーを解放するために、ボクは王子さまになる……
ウテナが「王子さまになる」とは、暁生の支配を撥ね除けて、アンシーを暁生から奪うことを意味します。
このウテナの決意が成就すると、暁生は学園支配のシステムを失い、手痛い打撃を受けることになるでしょう。
 
暁生はついに、みずからウテナに謀略を仕掛けることになります。
色仕掛けという謀略を……
 
 
●『鳳暁生編』……それは、ウテナ堕落編
 
ウテナは強い。
さすがの暁生も、そのことを認めないわけにはいきません。
かといって、黙ってアンシーを解放するわけにもいきません。
こうなると、単純な戦闘力でウテナを負かすのは困難であり、まったく質の違う作戦に変更するしかありません。
 
色仕掛けの懐柔策。
これに尽きます。
暁生の暗躍が始まります。
なんといっても、もうウテナにぶつける強力な駒がありません。
宇宙戦艦ヤマトで言えば、本土決戦状態のガミラスに近い。
手緩いことはやっていられません。アンシーの優しい兄を演じつつ、ウテナを抱くわ倒すわキスするわ……
じつにこまめに、暁生の肉弾戦術が冴えまくります。
 
とはいえ、わざとらしさをウテナに見抜かれてはなりません。
そこで、カモフラージュの意味も含めて、生徒会メンバーたちに、ウテナへ決闘を挑んでもらうことになります。暁生の真意を隠すための陽動作戦ですね。
そこで暁男は“世界の果て”の名前で生徒会メンバーに檄を飛ばします。
「ウテナを倒せ。きみたち自身のために……」と。
 
とはいえ、これまで散々、ウテナに負かされた生徒会メンバーです。
正直なところ、厭戦気分が蔓延しております。
どーせ勝てないよね。それにウテナに恨みがあるわけじゃなし……といったところでしょう。
 
第25話では、西園寺は“世界の果て”の言うことなんかきくものかとふてくされるし、26話では「ボクはもう、決闘はしない!」と不信感丸出しの薫幹。“世界の果て”から直々に「ウテナを倒せ」という手紙が届いても、この体たらくです。
生徒会の結束はがたがた。明らかに、“世界の果て”の権威が揺らいでいるのです。
 
これはまずい……
とばかりに、暁生は直接行動で生徒会メンバーをスポーツカーに乗せ、“世界の果て”を見せて洗脳、スタミナ注入してしまいます。
そんな次第で生徒会メンバーはウテナにまたまた挑むのですが……
 
やっぱりウテナは強かった。
みーんな、負けてしまいました。
 
しかし、さすがに抜目のない暁生。着々とウテナの心に忍び寄って外堀を埋め、ついに第33話「夜を走る王子」で、ウテナの心に決定的な勝利をおさめます。その裏には、ウテナが心から信頼するアンシーのお膳立てがありました。
兄にあくまで忠実なアンシーは、今度はウテナを生贄として、暁生に差し出したのです。
なぜ、そうなってしまったのでしょうか?
 
兄がウテナに手をかける。その謀略に協力するアンシー。
その裏腹に、アンシーは兄を愛しています。兄妹なので、お姫さまにはなれないことはわかっている。けれど兄を愛している。だから兄の手に、大切な友であるウテナを捧げるのです。
 
しかしそれは、まるで兄の心がウテナに奪われていくかのようです。
兄を愛すればこそ、薔薇の花嫁を演じ続け、百万の剣に串刺しにされる心の痛みにも耐えてきた。だのに、ウテナはそんな私の心を無視して、兄を奪っていく……ウテナ様はただの女の子だった。色仕掛けに落ちて、堕落するただの女。
 
兄を愛すれば愛するほど、みずからの愛に反する行為を強いられるという、自己矛盾。その顔はおだやかでも、アンシーの心中には、自分ではどうしようもできない、嫉妬の暴風が渦巻いていくのです。
 
 
第25話からの『鳳暁生編』は、生徒会メンバーの再度のリベンジ決闘を見世物にしながら、その背後では、暁生に篭絡され、堕落していくウテナに不信と嫉妬をつのらせながら、みずから兄へウテナを差し出すしかないアンシーの悲劇を描いているのです。
 
『鳳暁生編』の始まった第25話。その決闘シーンでひとつの事件が起こります。アンシーの胸から引き抜いてウテナが振るう剣が突然、消えてしまい、そのかわりにウテナは、アンシーの手によって、自分の胸から剣(ウテナの剣)を抜いてもらい、それで闘うのです。
 
これはつまり、アンシーが、自分の心の剣をウテナに使わせることを、拒否したことを示しています。『鳳暁生編』を通じて、ウテナに対するアンシーの不信感と、二人の友情の亀裂の始まりが暗示されているとも考えられます。
 
 
 
●『黙示録編』……ウテナの敗北、暁生の崩壊、そしてアンシーの革命
 
第34話から最終話までの『黙示録編』は、明らかに、ウテナと暁生とアンシーの凄絶な三角関係による、三人の闘いと別離を描いています。
 
ウテナに対するアンシーの不信感は頂点に達していきます。アンシーが表面上は穏やかなのでわかりづらいのですが、第35話でウテナが何者かからもらった耳飾りを嬉しそうに見せるあたり、アンシーの胸中は恨みの溶岩でメラメラ状態だったことでしょう。婚約者のいる兄に横恋慕している関係にありながら、他人から耳飾りをもらって喜ぶなんて、ふしだらな……といったところでしょうか。
 
こうしてアンシーの中で、ウテナのふしだら係数は着実にアップしていきます。第27話の、毒入りクッキーと毒入り紅茶の会話は、アンシーとウテナの間でいつのまにか開いた友情の亀裂を物語っています。一歩まちがえば殺意のやりとりになりかねない、静かだけど緊張した心模様ですね。
 
かといって……
今まで通り、ウテナは優しいのです。
「十年後にも、笑って一緒にお茶を飲もう」と言ってくれます。
ウテナに殺意すら抱いたアンシーには、耐えられないほどの善意でした。
ウテナへの嫉妬と殺意、しかしウテナの善意への感謝と友情も人一倍であるアンシーの心はさいなまれ、自己崩壊するしかありません。
アンシーは塔の上から身投げをはかります。
それを止めるウテナ。アンシーはさめざめと泣きながら、ウテナに罪を悔いるのです。しかしそれでも、解決にはなりません。
 
唯一の解答は、最後の決闘で決着をつけること。
とうとう、最後の決闘において、二人の友情が試されます。
 
決闘の本番においても、暁生の戦術はあくまで、ウテナをお姫様として懐柔することでした。ウテナから剣を取り、甘い言葉で、自分のお姫さまになるよう誘惑します。
しかし、ウテナが選んだのは、アンシーでした。
「ボクが(アンシーの)王子さまになるってことだろ!」
暁生はこの瞬間、ウテナとの精神戦に敗北したのでした。
躍起になって斬り込むウテナ。力を失い防戦するばかりの暁生。
そしてついに……
ウテナの方へ寄り掛かったアンシーはウテナを裏切り、背後からグサリ。
物語の第1話からずっと育まれてきた二人の友情が決裂し、急転直下、ウテナが敗北した瞬間でした。
「あなたは私の王子様になれない……女の子だから」と。
 
そして……
アンシーを柩から救い出すこともできず、「王子さまごっこになっちゃった……」と、力を失ったウテナに、無情にも百万の剣が襲いかかります。
なぜ、ウテナに襲いかかるのでしょうか。
 
ウテナは、明るくて友達思いの、本当に“いいやつ”でした。
友にするなら、なにはおいてもウテナでしょう。
正義感があり、ひたむきな、“いいやつ”……
しかし、世間は、そんな、いい人物に嫉妬します。
正義を語り、善を貫こうと頑張る人の脇で、ふんと笑い、そんなに一生懸命になっても世間じゃ通用しないよねと、嘲笑います。善人が一生懸命であればあるほど、その人の失敗を願う卑劣な人間もまた、現実には多々いることを認めざるをえません。
 
一生懸命に、正しいことをやろうとして挫折し、無力になったウテナに対して、世間は励ましも慰めも与えることなく、冷酷にも嘲笑の刃を振り下ろしたのです。
第1話で、廊下に貼りだされた若葉のラヴレターを読んで、笑いものにしていた人々の、情けない心の刃と同じです。それが、今度はウテナに集中し、ウテナの傷心を切り刻んだことでしょう。具体的には、心ない悪評や白い目、面白半分の噂話や嫌がらせといった形で……
 
(面白半分の嫌がらせの代表格は、ネット掲示板の下賎な誹謗中傷でしょう。作品が放映された97年当時は目立たなかったのですが、それから十年で、すっかり日常化してしまいました。残酷な“百万の心の剣”はいまやアニメでなく、私たちが直面する現実そのものなのです。ウテナのような人物がネットで攻撃されたらどうなるのか。卑劣な中傷に卑劣な反撃を返す人物ではありませんから、一方的に打たれるままになるでしょう)
 
こうしてウテナは暁生への思いを捨て、しかしアンシーへの友情も実ることなく、身も心もぼろぼろになって、失意のうちに学園を去ったことと思われます。
それからさほど日が過ぎたわけでもないのに、学園の人々はウテナのことを「ま、どうでもいいけどね」と忘れ去ってしまいました。
 
いやまったく、なんて薄情な結末でしょう。
生徒会メンバーたちも、すっかりウテナのことは忘れてしまったようです。
あの激しい決闘の日々は、暗黙のうちに、なかったことになってしまいました。自分に都合のよくないことは、あっさり忘れてしまうという、人間の身勝手さをつくづく感じさせられます。
 
 
●絶望の底に輝く希望
 
『少女革命ウテナ』の全話を思い返すと、この物語の、もうひとつのシリアスな側面が浮かび上がってきます。
 
ウテナが純粋に、ひたむきに追求してやまなかった、アンシーへの友情。
それに対して、周りの人々の薄情さ。
ウテナが心ならずも闘うはめになった決闘の原因も、たいてい、醜い嫉妬やあさはかな虚栄心、どろどろした恨み辛み、そして現実のいじめにも通じる、悪ふざけと侮蔑と猜疑心のぬかるみにありました。
 
そこが『ウテナ』の凄まじさであり、また傑作たる所以であると思うのです。
作品の中で登場人物たちが見せた薄情さは、まさに現実の私たちの社会の薄情さそのものでもあります。
いみじくも第9話で、影絵少女が語っています。
「心優しい」「友達も」「ファンタジーの中にしか存在しないのよね」
 
現実には、なかなか、いないのです、友達のひとりすらもが。
そうでしょう?
 
“友情”。
それが、『ウテナ』の全編を通じての、最大のテーマであったように感じます。
たったひとりの友達を得ることが、現実にはどれほど難しいことなのか。
平気でウソをつき、友達づらして影では平然と裏切れる卑劣漢がいくらでもいる現実社会に対して、しかし『ウテナ』はそれだけで終わりませんでした。
 
『ウテナ』は最後に、パンドラの箱の底に残されていた一縷の希望を見せてくれるのです。
 
それが、アンシーの旅立ちです。
ウテナは敗北し、裏切られ、絶望し、失意のうちに忘れ去られた。
……けれど、私は覚えている。あなたの友情を。
あなたを裏切った私を許し、手をさしのべてくれさえしたことを。
 
友は去った。けれど友情は残されていたのです。アンシーの心の記憶に。
 
その記憶が、アンシーを突き動かします。
……あのひとは私に、心からよくしてくれた。
 
その記憶が、一人の少女を革命します。
 
決闘広場が崩壊してゆくあの場面で、ウテナが最後の力を振り絞って、細く開けてくれた柩の蓋。
その蓋を、今度はアンシーが自分の力で押し開けて、居心地のいい柩の支配者にすぎない暁生に、明るい声で、さようならを告げるのです。
 
閉鎖社会からの脱出。
この瞬間、アンシーにとって、暁生が支配する世界は、消滅したのでした。
 
旅立ちは、簡単なことでした。
“殻を破る”のは、難しいことと思い込まされているだけで、じつは簡単なことであることを、アンシーはウテナから聞いたのですから。
「きみとボクが出会うこの世界を、恐れないで……」と。
 
恐れなければ、一歩を踏み出せる。
それだけで殻は破れるし、世界を革命することだってできる。
この閉ざされた世界を飛び出して、本当の友情にめぐりあえば、世界の意味は変わる。もっと希望に満ちた、幸せな世界に。
 
やはり、アンシーはきっと、世界を革命できたのでしょう。
 
「外の世界に道はないけれど、新しい道を作ることはできる……僕らが進めば、それだけ世界は広がる」
『ウテナ』の劇場版のラストシーンで再確認された、このテーマが、時代を超えて、今もしっかりと、TV版『ウテナ』のエンディングに息づいているように思えるのです。そしてこれからも、永遠に……
 
ウテナの友情に、幸あらんことを。
 
 
 


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